秋アニメ メモなど
『DIY』について
結愛せるふがぼっちというよりも、このDIY部の部員たちはそれぞれにぼっちな側面があるというほうがいいのかも。部長なんかも、同級生から見たら、変な人なのだと思う。
ブタの出てくるシーン。このシーンはけっこう不思議だ。食卓に豚肉がならんだり、明日の食事はブタ料理にしましょうみたいな会話になって、ブタがおびえている。
不思議だといったが、いわゆる「日常系」にはこういう不思議さはある。明らかに異質ななにかが紛れ込んでいたりする。場合によっては、異質なそれが作品の核心と言えるようなものすらもある。
それとペットの中ではブタはぼっち気味に見えるけど、なんか楽しそうにしている。
多くの人の心を操作するには感情に働きかけるのが効果的で、そこで修辞が重要な役割をはたすという点については理解できたような気もするけど、その修辞へのなんといえない拒否感?嫌悪感がぼくには残る。このぼくの反応もありがちな、凡庸なものではあると思う。ナッジというものに対する違和感も同じようなものに思うし。
文学や芸術における表現は半分はそうやって発展してきたような気もするし。まあ、もう半分も大事とは思う。なによりも、自分のために、という側面。そして、どちらかといえば、そこに触れることができた思えたとき、勘違いであったとしても、受け手は楽しんでいるということになると思う。
話を戻すと、ぼくの個人的な嫌悪感はわきに置き、修辞の才能ってのはあるんだなとは思う。バズるってのは才能が要るのだろう。そこへは多少の嫉妬はもちながらも、嫌悪感を抱かないように、今後は、していきたい。しかし、正直、あまりこういうものに触れないので、嫉妬しようがないとも思える。
あとは、大衆社会論か。こういうのにはぼくはもうあまり興味を持てないが、「亜インテリ」論とか、「大衆の原像」とか、『大衆の反逆』とか。ともかく、新技術でできることは多様になっても、根っこの問題はあまり変わらんような気がする。
関係ないことを思い出した。
法学的視点から、自由主義的見地と民主主義的見地の比較もよくわからなかったけど、国葬文化論みたいなのもよくわからなかった。
ただ、イギリスのを見るとメディア的現象としての国葬みたいなものは感じた。文化論としてなら、こういうお話のほうが興味があったかも。
たぶん、メディアが発達する前の国葬とは全然、違うんではないの?あれ?それとも、国葬というものが意味を持ち始めたのはそれほど昔ではなく、最近といっても、近代からとかなのか?
まあ、いいや。とりあえず、法学的視点からのお話が理解できなかったという点がぼくには大事だった気がする。