忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

久々に

 本物の寝落ちをした。気づいたら、朝だった。

 それにしても、もうすぐそこまで冬が来ている朝だ。窓を開け、冷たい空気を吸い込むと寝ぼけまなこでぼやけた輪郭があっというまに吹き飛び、なんだかもったいない気がしてくる。

 

 『無想庵物語』はまだ読み終わっていない。気になっていた解説のほうから読んだ。finalventさんのおっしゃるように索引自体がとても、おもしろい。夏目漱石のところなど、「帝大でラフカジオ・ハーンの後任」とある、一方、中里介山は「『都新聞』の記者。小説家。『大菩薩峠』の作者」となっている。

 いろいろと知らないので、おもしろいというのはある。昭和史をお勉強できたような気がする。が、それだけではない。上記のような記述はだれ視点のものであるのか?武林無想庵なのか、山本夏彦なのか。

 内容について序盤からきついものがあった。少年のこころを忘れない、というときの少年のこころとはどういうものを想像するのか?『少年ジャンプ』的少年のこころだけが、その代表ではない。

 

 ラムに虚無を見るというのはぼくは想像したこともなかった。押井さんはラムのそういう部分を畏怖したのか。

 様々な反論が予想されますが、ぼくは『バッカーノ!』が『うる星やつら』にどこかしら似ている雰囲気を感じる。というか、おなじような楽しみ方をした。アイザックとミリアがだんだんまともに見えてきて、他のキャラは以下略。すこしおかしいいんじゃないの?みたいな。

 まあ、でも、出てくるキャラが口先だけみたいな印象がないのはどういうわけか。おかしい人も、まともな人を本当のことを言って「しまう」。ギャグというのがそういうものか。

 

 ウクライナ・ロシア関連のニュースは、もう何度目であろうか、ロシアは瀬戸際みたいな報道のされ方。各地の戦況が全体的政治状況の中でどういう位置づけにあるかが見えてこない。

 

 吉本隆明の著作はありとあらゆるものが無価値になっても、詩だけはどこかの物好きに読み継がれればいいような気もするけど、読み継がれるというのは制度化が伴うので、その枠の外にあるものとして忘れ去られるのか。寂しい気がするけど、仕方ない。ただ、その物好きが詩人の書いた文章として、『共同幻想論』を手にとって、読みにくいとなればいいような。世間で言われているほど、読みにくい文章にも思えないけど。小林秀雄はなんかよくわかんないけど、かっちょいい文章を書く人みたいな感じで、今も読まれているのか。ぼくはそういう感じで小林秀雄を読んだ。

 

 眠気をさますため、コーヒーを飲む。

 

 嫌われ役をかってでる政治家に期待する発想≒大政治家待望論なら、ぼくには忌避感がある。