今日の川柳のコーナー 先日の続き 私秘性について など
今日の川柳
ああ夏よ 夏すぎて 夏すぎぬ
「すぎて」は程度
「すぎぬ」は(時間)経過
ということになっているが、この程度と経過をあべこべにしてもいい気がする。気がするだけ。
しかし、今日はだいぶ、すごしやすかった。おひさまが顔を見せないだけで、こんなに過ごしやすくなるとは。
先日の続きとは
作品解釈の問題だったのだが、今朝がたになにか考えたのだが、なんだったっけ?
ああ、あまり大した話ではなかった。
『ちはやふる』の主題をかるたとしながらも、なお三角関係、つまり、恋愛についてなにか記述するとすれば、かるたバカの恋愛あんぽんたんたちにとって「恋愛とは何か?」ということになるのか?と思ったり、思わなかったり。
他にもなにかあった気がするが、忘れた。
回顧の問題か。
これは結局、生き延びるたびに、回顧する時点が後ろにずれて、そのたびに解釈が変わる可能性か。
まあ、作品なら連載と書き下ろしで違ってくるということか。
あとは、事後修正がある場合もあるか。
あ、関係ないこと思い出した。『進撃の巨人』はどうするんだろう?アニメの話。
まあ、なにを見て、読んで、解釈したかを明記すればいいのか。
修正、変更自体を主題に含めざるえないとすると、ぼくはそれは面倒な気がするのやらないけど…
ああ、そうだ。『リズと青い鳥』の感想をいつだったか、クライマックスのシーンに焦点化して描いたが、ここで希美によってつかれた嘘を映画全体の流れにおいて検討しようと思ったのだ。
面倒だから、涼しくなってからにしよう。
ざっくりとしたメモ
なめらかに、というのはごく自然な流れとして嚙み合わない会話から嘘はうまれないのに、なぜかみ合いかけた瞬間、その大事な瞬間に嘘が生まれたのか?
こういう感じか。よくわからん。また、見直してみよう。夏の映画だしな。
あ、『ゆるキャン△』の映画、行くの忘れてた。暑すぎて、無理なんじゃね?自問自答。
思い出した。
綾瀬千早と綿谷新と真島太一の三角関係について考えるなら、綿谷と真島の関係にぼくなら着目するということだった。でも、これは以前に日記に書いた気もするが、その時はなんで書いたのかも、なにを書いたのかも、忘れた。
三角関係における同性愛的視点か。
また、『俺ガイル』のお話になってしまうけど、3期のたぶん、ED、あれがすごくいい。というのは、EDは雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣のふたりだけだった。
今、確認した。「ダイヤモンドの純度」やっぱそのふたりだった。公式チャンネルの58秒あたりの結衣が雪乃に抱きついているあたり、にやにやはしないけど、いいと思う。リンクの貼り方がわからんし、めんどい。
全然関係ないけど、早見さんは歌がうまい。うらやましい。
まあ、そういうことだな。なぜこんなに『俺ガイル』の話をするのかとこの作品が好きなのだろう。しかし、千葉県がなぜこの作品をおしているのはわからん。別に文句ではない。
独在性と私秘性
これは前にも、この日記に書いたと思う。
ショックだった。私が私であることを支えている根本的な原理は独在性という事実を知ってショックだった。まあ、中途半端にお話をかじっただけなので、十分に理解できているかはあやしい。
でも、言われみるとたしかにそうなる。たとえば、たいして記憶の蓄積などないがきんちょの頃に自分は存在していた。それじゃあ、記憶を失えば、ぼくはぼくでなくなるのかといえば、そうはならんだろう、という気がする。
しかし、文学、とくに、私小説なんて私秘性こそが自分が自分である根拠として自分語りをしているのだと思う。
私が存在すること ひとりでできること
私が私について語ること ひとりではできないこと
並べてみたけどよくわからん。
というのは、私が私について語ることのうまくいかなさみたいなものを考えてみたくなる。うまくいかないというのは正確にはそれができないという感じ。なにを語りだそうと嘘になってしまう感じか。
三島の小学校の先生は彼の作文を褒めたと聞いた気がする。これはすごいことだったかも。文学者でなければ、大変なことになっていたのではないか?と気が少しだけする。
脱線。
ぼくが永井さんのお話だったか、文章だったかを誤解、もしくは、誤読しているだけのかもしれないが、確か、箱の比喩だったか。
それで、ぼくは箱が独在性で、箱の中身が私秘性なのか、と理解していた。
そもそも箱がないと中身は詰めようがない、と。
で、中身はなにかをきっかけとして入れ替え可能。
まあ、結局、回顧の問題して考えたくなるからだが、回顧というのは具体的には記憶の取捨選択をやっているのだろう。だから、たぶん、記憶はどんどん変わっている。
書いていて、混乱してきた。寝る前にいくつかアニメを見よう。
ああ、思い出した。
昨日、なぜ結末から逆算する解釈が偽史になるのか。
作品なら結末から先はないからちょっと要検討だけど、自分の人生とか、歴史とか、どんどん先に進んでいってしまうから、解釈がある時点から未来に行われるものであれば、変わっている可能性があるので、偽史になりうる。
偽史ということばは少し違うな。事実の問題ではなく、意味解釈の問題だ。意味合いが変わるというほうがよかった。しかし、史観云々するなら、偽史でもいいのか。わからん。
それにやっぱ作品解釈にしても、結末から逆算するというのはどこかうさんくさい感じがあると思うようになってから、そのうさんくささが気になっている。