忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ちょっとずっこいことをしたなと思ったので

 先日、『小林さんちのメイドラゴン』とあるふたつの映画を、作名を分かるようにぼかし、比べ、『メイドラ』のほうがおもしろいと書いたのはちょっとずるい気がしたので、それに関して。

 

 まず、はじめにそのふたつの作品についてちゃんと言及しよう。

 『万引き家族』と『パラサイト 半地下の家族』である。

 万引き家族は血のつながりのない疑似家族。半地下の家族は血のつながりのあるの家族。それぞれ主題も異なるが、共通点もある。「格差社会」?これはそうかもしれないが、それとは違うところが気になった。それは、はっきり言えば、がっかりしたのは、クライマックスで、血のつながりを否定するか、肯定するかにかかわりなく、家族というものを描くとき、血に集約されるところだ。

 一般に、あるものやことを見て、価値判断を下す際、どこを重視するのか?結論が両極端に分かれたとしても、集約点が同じであるなら、その前提となる価値観を共有していることになる。それら2作で共有されている価値観は血のつながりを重視すること。

 わかりにくい。最近の話題でいえば五輪かも。五輪をいち民間組織の興行と位置付ける人はごちゃごちゃ言わないほうがいいと思い、生活の中で極力、ぼくはそうしていた。五輪開催を強く主張していた人も、開催後でも、中断をすれば、感染の抑制に効果があると考えていた人も、ぼくから見れば、五輪を何か特別なものとして見ている点で変わるところがない。特別なものだから開催せねばならぬのだろうし、特別なものだから中断すれば、アナウンス効果に期待できると考えたのだろう。そう見えたぼくからすると、政治家が政治生命をかけて五輪をやるみたいな話をしていたのなら、実にあほくさいとは思うが、もう好き勝手にやってくれという感じ。民間の興行にそこまで入れ込む政治家は変。(この政治家は別に菅さんのことではない。菅さんは五輪については開催に必要なことを必要なだけやったという個人的な印象。でも、これは誤解かも1964が記憶にある人でもあるし、わからん。)

 これもわかりにくい。

 ようは自分の中で大事でないものを焦点化するのはおかしい。そういう話。『万引き家族』、『パラサイト 半地下の家族』の作者たちとぼくとに家族観の違いあるのだ。ぼくは家族で血のつながりが大事とは思えない。家族が大事ではないと言っているわけではない。一方で、『メイドラ』は血の論理を強調することなく、家族を描いていたため、いいなと感じた。特に、ルコアとファフニールはそこで大きな役割を果たしているような気がする。というか、小林、ルコア、ファフニールはそれぞれキャラの異なる「おひとりさま」なのかも。トールのもつ押しつけがましいなにかを「おひとりさま」も嫌いじゃないのだろう。よくわからんけど、おもしろかった。ドラゴンはそもそもが「おひとりさま」だったのか?やっぱ、ちがうか。そういえば、この押しつけがましいなにかをとてもうまく表現できていたアニメは『キルミーベイベー』だと思う。折戸やすな恐るべし。今、調べたら、ソーニャちゃんは小林さんなんですね。最近、少しずつではありますが、声優さんについても詳しくなってます。島村とくくるが同じことも途中で気づきました。大きく脱線。

 でもな。この感覚は伝わりづらいかもしれない。この種の話を身近な人にして、たまに?だいたい?誤解されて終わるし、そこは自分の話がへたくそということで諦めているが、めんどくせー問題なのだろう。ぼくは血の論理を否定しているわけではなく、そんなものなくてもなんとかなるさと思っているだけなのだが、反発を招くこともあり、話に出さないのが無難となりつつある。しかし、実際、ぼくと犬に血のつながりはなかった。それはそれとして、気にならないものについては言及しないのが最善手ということだろう。気づくと、言及しちゃっているのだけど、それも仕方ない。ところで、『メイドラ』3期があるとして、原作の流れからするとどこへいくのだろう。未読なので知らない。神、ドラゴン、人間の価値観の対立方向に話が進むのなら、2期のような雰囲気の維持は難しいのだろうか。価値観の対立がドラマを生む説。これは正しいと思うけど、昨今の世相を見るにしても…めんどくせー話になりそうだから、もう止めよう。ちょっとだけ。それはナラティブの問題?あと、政治と科学についてなにかしら言及している人は言論界にはいないのだろうか。いるのか?また、脱線。

 

 五輪のことを書いていて思い出した。

 五輪中断の主張にはこのような状況でお祭りを楽しむなんて…という含み。そんな思いは多少はぼくにもあった。日本の社会は他人の幸福や他人の楽しんでいる姿をうらやむ。そんで、ときに、攻撃的になるという話。特に、日本人に限ったことにも思えんけど、戦前からそうだったという話をされると、今はずいぶん良くなったんだと思う。戦中はひとさまの幸福に嫉妬するなんて、そんなのあほくさーって思っても、口にできなかっただろう。そういうことを口にできるようになっただけでも、社会としては前進したのだと思う。しかし、それは精神的な成長というよりも、技術の進歩によるのではないか。ツイッターという手段が生まれ、そういうことが言えるようになった。みたいなことを思うと技術史とかもおもしろそう。散漫な性格なので、すぐあれこれに関心が飛ぶ。軽薄。あまりにも軽薄ってやつだ。

 写真もそうなのか。人間は写真という技術を手にして、なにかあるとやたらと写真を撮るいきものになった。現代は多くの人が常にカメラを携帯している状態。でも、このところの関心事であるアニメーションにおける写真の意味論的なものはそういうのではないかも。写真という技術を手にしても絵を捨てなかった人間。そして、絵で表現するアニメーションの中で写真を出す意味だと思う。写真を知り、人間の知覚がどうかわったのか。そこから絵はどう変わったのか。そして、今、アニメーションの中で写真はどんな意味を付与されたのか。わからん。