忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

アニメ『小林さんちのメイドラゴンS』に関するメモ

 アニメ『小林さんちのメイドラゴンS』で気になったこと

 

 ①主題について

 原作は未読。加えて、1期もちゃんと見ていないため、すこしおかしなことを書くかも。

 

 異種間コミュニケーションとしての『メイドラ』

 人間、神、ドラゴン

 ドラゴンは自由の象徴。神は秩序の象徴。ゆえに神と対立するドラゴンという理解でいいのだろうか。そして、力としてはとるに足らぬ人間はそのままであったなら、ドラゴンにとって無視していい存在だったが、ドラゴンの中に調和勢が出てきたことにより、神を崇める人間(神になりすますドラゴンを利用する人間)は無視できない、害悪になった。

 根本にあるのは価値観の対立。

 『メイドラ』の主題、特に、原作の主題は価値観の対立をいかに克服するか、異なる価値観の相克を異種間コミュニケーションとして描いているということなのだろうか?

 

 この疑問が湧くのはぼくがおもしろいと思ったところがそこではなかったからだ。

 概念としての<こども>と<おとな>問題として見ていて楽しかった。家族的な集団の在り様を描いたアニメとしておもしろかったのである。この点に関しては、ツイッターにかなり優れた論考があり、とても参考になった。

 ぼくはその点に明確に気づいたのはたしか、6話。滝谷×ファフニールの会話だった。それ以前はおぼろげながらという感じ。

 例えば、ひとりの少年が、ひとりの少女が大人へと変わる成長物語としての<こども/おとな>問題ではなく、関係性としての<こども/おとな>問題。前者はひとりの物語として完結するのに対し、後者は他者を必要とする。本作でいえば、イルルが<こども>になるためには小林という他者、<おとな>を必要とした。

 まあ、ここまでは以前、この日記にも書いた。

 が、先に進むにつれ、<こども>と<おとな>の境界は曖昧になっていった。<こども>と<おとな>の立ち位置は固定されたものではなく、流動的で、柔軟性がある。ピクニックで<こども>を探しに行ったエルマ、<おとな>が迷子になる。カンナも、小林も謝ることばが思いつかない。こういう話が続いたからだろう。おもしろいと思った。

 また、「父の日」にルコアは実際、<父>として感謝されていいようにも思えた。

 先ほど言及したツイッターの論考はこの点を「多型」な人間関係と評言され、的確と思った。この「多型」ということばには多くの含みがあると思う。

 もうちょいこの問題については考えてみる。

 本作には関係ないけど、上野千鶴子さんに対するイメージがだいぶ変わった。(だいぶは嘘だな、すこしだけ変わった。)最近、シモーヌ・ド・ボーヴォワールについて語る彼女を見たせいもあるかもだが。

 

 ②3話からのロングパスについて

 3話で小林は、いかにして余はメイドオタクになりし乎について語っていた。

 そこでのセリフ

 小林「わたしはコスプレがしたかったんだよ。」

 コスプレを否定していたくせに、前言をひっくり返した小林にトールがセリフを返す。

 トール「小林さんのずるいところが好きです」(ずるいところ=簡単に前言を撤回するところ)

 

 このやりとりは長いながいロングパスだった。長いを重ねすぎ!

 11話にそのボールは届く。

 神との戦いを経て、ひとりになったトールは自分にはやりたいことがなかった、つまり、自分が空っぽだったことに気づく。そして、小林に出会い、今、あることに気づく。

 トール「今わかりましたよ。小林さん、私はメイドになりたかったんです。」

 うむ。小林はずるいところが好きとは返さなかった。そう返さないところを含め、感動した。

 原作はどうなっているのか。構成としてかなり凝っている。

 このロングパスについてあれこれを屁理屈をこねくり回してみようと思っているのだけど、もっと別の点が気になった。写真についてである。

 

 ③写真が結構、出てくる

 この写真問題のためにだけに今日、12話すべて見直しました。

 

 3話 メイドを服を着た小林を記念して写真を撮る。

 4話 遊園地にて。ジョージーが撮影者。この写真はおもしろい。ジョージーの記憶として色濃く残りそうな予感。被写体ではなく、撮影者の記憶。

 6話 才川×カンナ。川辺の散歩。老夫婦に川をバックに撮影してもらう。ふたりの思い出の一枚。

 7話 ルコアの写真集。同人誌即売会

 壁新聞のネタ、幽霊探索のため、学校をうろうろするカンナたち。クラスメートの女の子が写真を撮影。SNS用の写真。今っぽい写真。こういう写真に対する感覚はぼくにはない。批判ではない。新しい感覚を教えてもらう感じ。問題はぼくはFBをやっていないことだな!ツイッターもだが。

 9話 エルマ×カンナ×才川×翔太(五十音順)のピクニック写真

 10話 クロエと犬のツーショット。カンナに送った手紙に添えられていた。また、シャッター音のみだが、カンナを尾行するトールの様子の場面。これは写真ではないか。

 最終話 花火大会の写真。きちんとオチをつけてきたのですね、と脱帽。

 

 で、あることに気づきました。

 こころのシャッター音に。(こころのシャッター音って文字列、自分で書いていてもうざい!)

 それはどこか?

 8話 小林がカゼをひき、その小林のためにボロボロになりながら、お薬を異世界まで調達にいって帰ってきた場面。

 小林の脳内でパシャリと鳴ったはず。脳内写真。小林の思い出の一枚。(冗談)

 冗談ではないほうの話をすると記憶について。あのシーンは小林の記憶に残るのだとは思う。

 

 ところで、原作でもよく写真は出てくるのだろうか。

 そこは少し気になった。

 漫画にせよ、アニメにせよ、その作品で「写真」はどのような意味を持つのだろうか。本作でいえば、4話、遊園地回、ジョージーの撮った写真がぼくは個人的に好き。撮影者の記憶の補助みたな感じが好き。被写体が主役ではなかったところが好きなのかも。上記、8話の小林の脳内写真もそうかも。

 写真のリアリティと絵のリアリティ

 本作におけるアニメーションの中の写真が持つ意味。

 そういうことを書こうと思っていたのだけど、買ってきたラノベが気になって、先にそっちを読んでから、考えようと思う。

 なので、メモを残しておく。