忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ゲラゲラ笑いながら、感動した

 『ひぐらしのなく頃に』シリーズは今回の「卒」で初めて見たので、ぼくの場合、過去作との作風違いなどを知った上での理解ではない、という言い訳をはじめにしておく。

 このような言い訳から始めたのは過去作のファンからするといろいろと今作にはあるようなので、でも、ぼくのような初見からすると当たり前であるが、その種の違和感はないのでおもしろかったのである。

 でも、北条沙都子古手梨花のジャンプ漫画風バトルシーンはゲラゲラ笑いながら見た。だが、しかし、めちゃくちゃ感動もした。ただ、若干、内容の理解について混乱した。

 

 以下、内容整理のメモ

 これまでの理解も相当、好き勝手なことを書いたので、今日のメモもそんな感じ。

 沙都子と梨花の関係性は雛見沢という狂った世界構造から疎外されたもの。オヤシロサマの祟り、差別、古手家、園崎家といった日本的家社会といった社会構造がからまっている。ここはもうちょっとちゃんと分析したほうがいいかもだけど、めんどい。ぼくは見始めたころ、勘違いをしていたが、沙都子がなぜ梨花に執着しているのか、その理由を探していたが、それを考える必要はなかった。根拠は既に記したように環境が生み出した関係性だからだ。

 大事なポイントはふたりの関係性の存立は雛見沢という狂った土地に依存しているという皮肉。

 ここから先はぼくの理解の修正。

 これまでぼくは上記の皮肉を理解しているのは沙都子のほうだけと思っていたが、梨花も理解していたのかも?というのは、雛見沢から離れたって、さらには雛見沢が地球上から消滅したって、ふたりの関係性は消えねーよといっている。つまり、雛見沢という社会構造に挑戦状をたたきつけているという解釈。りかちゃまは革命家だった。非常に実践的で、かつ実現可能な受験により外の世界に行こうという方策はいいなと思った。余談ではあるが、舞台は昭和なのか。ただ、もう政治の季節が終わった後の昭和であるが…ダム建設、水没する村、この辺も「昭和」なのか。うむ。今でも、そういう社会問題は形を変えてあるんだろうけど、ぼくの苦手な領域だ。

 脱線。でも、『ひぐらし』の読解は意外とめんどい、というか、ぼくには無理そうな気がしてきた。まあ、自分のわかる範囲に話を戻そう。

 沙都子も梨花も自分たちの関係性が雛見沢という特殊性から生まれ、関係の維持は皮肉にもその特殊性に依存するとふたりとも理解していたとすると、このふたりの違いはどこか?

 沙都子は理解しているので、雛見沢にこだわる。そこでは沙都子に対する差別があるにもかかわらず。沙都子を踏みつけた村を沙都子は捨てられない。

 梨花は理解しているので、雛見沢を捨てる。その土地にまつわる祟りに関連して、血の論理で背負わされた業からの逃避。梨花の理路のほうがぼくにとっては理解しやすい。沙都子の異常性が際立つ。

 沙都子の異常性は悲しい。かりにそれが思い込みに過ぎないにしても、主人公らしい悲しい矛盾をもつ。同窓会の沙都子を思い出すとやべーとなる。沙都子の勉強なんてしたくねーって複雑なニュアンスを含んているのではないか。

 ふたりの共通点は雛見沢<梨花、沙都子。

 

 沙都子と鉄平の関係については完全に読み間違いだった。沙都子は鉄平との関係がうまくいくことで雛見沢、梨花から卒業するのかと思っていた。これは完全に違った。

 

 ここからはちょっとだけ文句。拳で語り合うヤンキー漫画みたい。しかも、映像としてはバトル漫画みたい。なので、見せ方の問題として浮いている感じはあった。ガチの口喧嘩だけしていても、映像的におもしろくないから、仕方ないのか。ああ、でも、ゲラゲラ笑って、ぼくは見ていたし、大成功なのかも?

 ふたりはもっと前にガチの大ゲンカをしておけばよかったのにとか説教くさいことを言うのは野暮だろうな。ふたりはスーパーカブに出会うといいのかもだな。

 あと、ケンカでかたがつくのはふたりの問題だけで、いうなれば、ふたりにとっての雛見沢問題が解決するだけなのかも。社会問題としての雛見沢は残る。

 

 ということで、2021夏アニメベスト3

 『小林さんちのメイドラゴンS』、『ひぐらしのなく頃に卒』、『白い砂のアクアトープ』

 

 感想文については『小林さんちのメイドラゴン』について書きたい。

 その前に買ってきたラノベを読んで、その感想か。