忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

さっき書いた日記にも関連すること

 「世界の見え方」について

 佐々木俊尚さんの文章を継続して読んでいるわけではないので、かれの問題意識を把握しかねるが、物語の構造をつかむ読み方は古臭いのではないか、と思う。とくに反論の意図とかはなく、思ったことをメモ。

 この点ではぼくは橋爪大三郎の指摘にうなずく。クロード・レヴィ=ストロースが凄腕だから、かれがちょっとトンデモだから?、おもしろくなるので、ぼくのような凡人がマネしてもつまらん。つまらんからしないのか?というと、ぼくはそこは無視して、実行したり、しなかったり。まあ、いいかげんなもんだ。

 ある概念をつかって物語からうまく構造を浮かび上がらせることができたとして、そこで問われるのはその構造と作品の主題、本質との間に関係性が見いだせるか?まあ、ぼくはそこに自信がないため滅多にやらない。(とはいえ、あまり細かいことは気にせずに、この日記ではたまにやっている。)だいたい、カミソリで大木に立ち向かうみたいな間の抜けた行動に終わるからだ。

 まあ、なにをいいたのかと言えば、物語の構造とか考えたければ、考えればいいし、その種の読み方をすることで楽しめる作品もあるだろうが、しかし、それとは無関係におもしろい作品だってあるさって感じ。

 最近のぼくのツボとしては尊いシーンの積み重ねが作品の魅力の根幹という感じかな。いや、積み重ねなんかいらない。たったひとつのシーンでもいい。いずれにしろ、そこにどんな世界が広がっているのかにあまり関心が向かない。そこへの関心が向かうとすれば、世界の見方という意味での世界観が主題であるときだろうか?

 『進撃の巨人』を同時代的に見れば、異質な作品なのではと思う。まあ、よくわからんな。『リゼロ』も同種かもだし。「大きな物語」への回帰か…このふたりの作者にはそういう傾向があるかも?

 うん、やっぱ、現代の潮流を探るみたいな思考自体、今は不要な気もするな。だって、現代の潮流とされるものにうさん臭いマーケティング以上の意味合いはなさそうだし?すくなくとも、ぼくは自分の感性に添って、作品を楽しむよ。

 

 追記

 佐々木さんの文章をかなり誤読していたかもしれない。

 物語の構造≠世界の構造なのか。

 今でもちゃんとぼくが理解しているか、あやしいが、作者には「世界がこう見えている」ということを提示している。そういう作品があるという話か。

 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をそのいち例にあげていたのか。

 とすれば、上記のぼくの内容はかなりずれているな。

 

 まあでも、基本的にはぼくには理解できない話だ。単に作品の受容の仕方が全然違うというだけの話なのだろう。まあ、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな作品の楽しみ方があるという至極、当たり前の話だった。

 物語の構造≠世界の構造については、作品ごとに異なるだろう。

 自作『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』について村上春樹がどんな発言をしているのかは知らないが、作者の世界観(現実世界が彼にはどう見えているのか)を反映しているとはぼくは考えない。小説という形式で現実世界とは別の世界をつくっている、とぼくは考える。無論、全くその反映がないとはいえない。かりに現実世界と作品世界が同じ構造をもっていると読者に思わせることができたのなら、すごい作品ということになるだけの話で、それもたまたまそうなったに過ぎず、作者が意図した結果といえるのか、どうか。やっぱ、作者にそういう意図があるように受け手から、見ええるのか次第か。

 そこでやはり、個人的にはある疑問に行き着く。世界観に「文学の初源性」は宿るのか?とてもじゃないが、今すぐに答えが出せそうにはないので、宿題だな。ぼくの先入観としては人と人の「関係の絶対性」からしか、「文学の初源性」は生まれないのでは?と思わんでもない。世界観を世界と人の関係性と見ると…それは「文学の初源性」ではなく、そこに宿るものは思想ではないか?で、思想の力であり、同時に駄目さってその発生の条件にあるような気がするのだが、よくわからなくなってきた。思想はどうしたっていずれ嘘が混じる。悪い意味での嘘、欺瞞。文学から世界の見方を学ぶことは思想を受け取ることに等しい。文学の楽しみがそれなのか?よくわからん。結論放棄、考え中。

 あるいは、作品で提示した世界観で見ると世の中が楽しくなるかも?みたいな話ならぼくも大きく肯ける。異世界ものを最近、よく見ていた。でも、いくらがんばってもぼくには飛行機は竜に見えそうもない。修業が足りんのだろうか?魔法ならつかえるようになるだろうか?