忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

もはや宿題

 度々、おきるこの現象、やらないきゃいけないことと認識されると別のことを始めてしまう。その名前を考えているというわけでもない。ということで、ようやく『安達としまむら』の2巻を読み終わった。前から、読むスピードは遅かったけれど、読まなきゃいけないという意味不明な義務感が出てくると、別のことを始めてしまうことによりさらにそのスピードが落ちる。なんなのだ、これは。

 

 2巻までのメモ

 こどもを「無防備」と評するのはぼくの勘違いではなく、原作でもそうだった。

 

 日野、永藤は原作では丁寧な描写があり、面白かった。

 安達から見た日野、島村から見た永藤も面白かった。覚えていたら、永藤から見た日野、日野から見た永藤と違ったりするのか、確認してみたい。

 

 モールに安達、日野組と島村、永藤組で買い物に行ったとき、安達は島村と永藤の様子を見て、嫉妬していたのがアニメよりも感じられた。でも、その違いは着地点はアニメと同じなので、気にならないといえば、気にならない。

 

 島村の妹がヤシロに「しょーさん」とよばれるのは「小3」だからなのかと勝手に思っていたが違った。「島村(小)」さんを略して「しょーさん」ということらしい。

 

 あとぼくは映像を理解することができないのだなとあらためて知った。映像の文法がさっぱりわからない。

 分かることの良さなのか、何かについて分かったときというのは分からないことについて思い知らされたときというなんとも奇怪な事態。こういうことはよくあるかもしれない。先日のメモでも書き忘れたが、「もののあわれを知る」が分からないという話の他にも分からないことがあった。宣長が言霊を信じるということは分かったのだが、自分はその言霊がわからないということに気づいたのだ。自分が古典を読み込めない理由に気づいたということでもある。要は、古典の語感がつかめないのである。宣長は長い日本の歴史の中で使われてきたことばの歴史の積み重ねを信じ、それに寄り添い、あるいは身を預けながら古典を理解できるのかもしれないが、ぼくにはその積み重ねがあるという感覚がない。日本の古典が外国語に見えるということはないが、なんなのだろう。まあ、でもこうして日本語を使っているということはその積み重ねに身をゆだねているということになるのだろうが、それでもなにか宣長さんのいうことが腑に落ちないと思いながら、随分と時が経ってしまった。だから、たまに読み返すのだろう。

 あと気になっているのは、『ドストエフスキーの生活』について。この本の内容はほぼ忘れている中で唯一記憶しているのが、ドストエフスキーがロシア国民を愛していた、信じていたという話。このドストエフスキー像に小林の描いた宣長が重なって見えるのだけれど、そういうことを書いた本とかあるのだろうか?それと未完だった気がするが、なぜ未完なのか?気になるような、気にならないような。