7話の感想はもうすこしちゃんと書こう
安達が島村をどう思っているのか。
先日書いたときは、男の子を好きなる予定と書いたが、これは勇み足というか、強引な解釈だった。これは実のところ、不明なのだと思う。ただ、ぼくの密かな願望として、安達のあのためらいは島村がどのタイプの恋愛を志向するひとであるかへの気遣いであって欲しいという思いに尽きる。
今になって「一番」ということばに引っかかっている。
ぼくは「一番」ということばが好きではない。
巷で言われる「一番病」とはそれほど関係がないと思う。起源は知らないが、鶴見俊輔?三島由紀夫?いずれにせよ、そういう話がしたいわけではない。
最近ぼくのやっているゲームのシナリオで「一番かわいそう」という表現が出てきた。自分でも、そんな些細なことに目くじら立てるなよとは思う。が、かわいそうに一番も、二番もあるかよって思ってしまうのだ。きっと、それを書いたひとはそんなことは気にして書いたわけではないだろうから、拘泥するぼくのほうがおかしいに違いない。
ところが、安達と島村のいう「一番」にはそのような感情は持たなかった。それはなぜなのだろう?
思い当たる節として、ぼくがこのふたりのことを好ましく思うからということはある。自分でも気味が悪いが、これはあるだろうなと。これまでにも散々書いてきたので繰り返さないが、この作品をぼくがすきなのだから、そうなるという話。
それともうひとつあった。それはぼくがだれかの一番になりたいと思ったことが無かったのかもしれないということ。安達の島村の「一番」になりたいという告白に感動したのかもしれない。なお、なぜぼくがだれかの一番になりたいと思ったことがないのかについては、考えない方針。それをすると幻滅するかもしれないという予感。
あれ?犬には家人の誰よりも好きなってもらいたいと思っていたかもしれない。実際には確かめたこともないし、確かめようもなかったと思う。
まあ、自分のことは置いておくとして、島村は実に不思議な存在だと思う。これまでも書いてきた繰り返しなってしまうが、彼女はずいぶんと安達についてあれこれ心を費やし、語っているではないか。しかもそれを彼女に直接伝えるということもしないくせに。それって、以下略。
大真面目ちゃん、年越し勉強に励む
でも、「テレビでも見てる?」と聞かれちゃうと、うんと答えちゃう。本筋とは関係なさげなこういう細かいところでいい作品だなと思える。勉強しているって告げるのは恥ずかしいことなのだ。羞恥心っていいなと思える。いや、後ろめたさと言い換えてもよいかもしれない。何に対する後ろめたさか?そんなことは分からんが、彼女たちにとっては勉強をすることこそが堕落だからだ。ぼくは価値観をひっくり返して、ことば遊びしているわけではない。また、勉強することの価値を落とそうという意図もない。
とか書いたわけだが、島村の場合、誤解を訂正するのが面倒なだけだったかもしれない。ぼくにもたまにある。面倒だなってときでたいした誤解でもないかなというときは失礼なことかもしれないがそのまま通り過ぎてしまう。
いや、やっぱりなんとなく恥ずかしいってのもあったのかもしれない。よくわからなくなってきた。