忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

知我麻社について、「優等生」であることについて

 知我麻社について

 宇宙人であるらしい。この水色髪の人型のなにかが出てくると頬が緩みかける理由が分かったような気がする。この生き物?は先日書いた共同幻想とは無縁な存在だからなのだろう。だれからも、なにからも期待されることのない自由な存在。人間サイドでそれに近いのは島村の妹だろうか。島村が述懐するように、幼いころはどうしてあんなに無防備で馬鹿でも生きてこられたのか、それはきっとだれかやなにかの期待に応えることなく、いや、そういう期待がこの世の存在することすら知らずに生きることができたからだ。歳を重ねるごとに世の中のあれやら、これやらに苛まれる。だからといって補助輪付きの自転車で街中をかっ飛ばしていたあの頃を思い出すと涙があふれるということはない。

 

 「優等生」であることについて

 安達としまむらが「優等生」の道を歩むことは堕落と書いたわけだが、訂正するという話ではないが、もう少し、丁寧に書けそうだなと思った。

 そもそも、この物語で出てくる「不良」と「優等生」、このふたつのことばについては、個人的な印象で言ってしまえば、一般的な使われ方とは異なる。以前にも書いたが、授業をサボって体育館でピンポンをするふたりは不良には見えなかった。また、授業に出て、英語で島村より点を取るようになり、一緒に勉強しようと提案する安達は優等生には見えない。もっとも、島村の「優等生じゃん」発言自体が実際にそう思っての発言ではなさそうなことは口調から伝わってくる。

 「優等生じゃん」と言われ、すこし恥ずかしそうにするところをとてもぼくは好きなのだ。島村と一緒にいたいという気持ちを悟られたくないと思い、恥ずかしがっていたようにも見えるが、それだけではないとぼくには見えた。優等生ではないかもしれないが、それに似たような行動をとることが恥ずかしい。安達のどこかにこのような思いがあったのではないか、と。これはありがちな優等生を小馬鹿にするような描写とは違う。ちょっと前向きな自分をだれかに指摘されることが恥ずかしいのだ。そこで、ぼくだったら、それを堕落と呼んでくれるひとがいれば、多少は気が楽になるかもしれないと思い、そう書いたのだ。自分の堕落観が変なのだろうけれど、こういうものを堕落と言わず、なにが堕落なんだと思うので仕方ない。さらに言えば、こういう堕落をしないとひとは生きていけないと思う。人並みなフリをしないとやっていけない。それはそれで疲れることに違いはないが。堕落する道が楽で平坦なんてことはありはしないのだ。