忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

録画をもう一度確認した結果

 『安達としまむら』6話を見直していた。それで昨日書くはずが今日になってしまった。

 と書きつつ1話で気づかなかったことを書いておくと安達の左利き。

 

 本題の6話について、

 安達→島村のズレ

 安達は島村の望むクリスマスは違うものだと思っている。それはふたりの関係性の認識に対するズレでもあり、その結果として頭の中のことばと口から出てきたことばが別のものになってしまったのだろうと思う。さっき確認してみたが、やはり「好きで、好きで、好きで」のところは口があいていなかった。

 

 島村→安達のズレ

 春になったらまた体育館に行って卓球をすることになるのか?つまり、またサボるのかと安達に問うて、その答えを聞いたとき、それは島村が期待したものではなかったのかな?もしくは、やや意外な答えであったのかな?とぼくは感じたけれど、これは早く春になって二人の学生生活がどうなるのか、気になる。とても楽しみである。徐々に優等生化する安達?よくわからないが、しまむらのキョトンとした目、声の様子がなんだか置いてけぼりを喰らったこどものように感じられる。幼いころの記憶の前振りがあったせいだろうか?

  これらのズレが生み出す自意識の語りに今後も期待。

 6話で感じたふたりのズレはこんなところだろうか?

 

 その他に気になったこと

 安達はなぜ痛みを素直に感じようとしないのか。しかし、こう問いかけるのも変か?島村と永藤の関係に嫉妬はしていないのだろう。「しまむら」と声に少し出してみるだけで幸せを感じるのだから、嫉妬している余地などないってことなのだろうか?それと安達が前向きになっている感じは見ていても心地良い。日野とも友達になれそうではないか。

 

 島村のことをもっと知りたい、声を聞きたいといいながら、根掘り葉掘りしないところが安達の安達たる所以なのだろうか?

 

 これは大して気ならないといえば、そうなのだが、なぜ安達は島村なのだろう?家は違う方角だし、やっぱりたまたま体育館で出会った、それが運命ってことなのだろうか?それにしてもひととひとの出会いってやつは運命としかいいようがないのかもしれない。

 

 6話の感想ってわけではないのだが、『安達としまむら』を見ていて、『少年アシベ』が度々、脳裏に浮かぶ。似ているというわけではないのだが。なんなのだろう。

 

 それと頭の中のことばと口から出ることばが別のものになる問題は「ツンデレ」現象にも当てはまるのだろうか?これといって「ツンデレ」に関心があるわけでもないので、これ以上書こうとは思わないが。

 

 いずれにしても、2年生になったふたりを早く見たい。

 それと、やっぱりこれは学園ものではない?学校行事とか全く出てこない。それでも楽しい。これも不思議と言えば、不思議なことである。

 

 大事なことを書き忘れていた。「ホワイト・アルバム」とは何なのか?それが分からない。