忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

死者との記憶

 犬に歌をささげようと思い、それらしいものを作ってみて感じたことは死者との記憶は意外と季節と結びついているということだった。散歩のことを思い出してみても、四季折々の風景が甦ってくる。すごく申し訳ないと感じたのは、じーさん、ばーさんの時には、こうしたことをしなかった。自分にとっての身近な死というもので、初めてのものが犬だったということにはならないだろうけれど・・・・

 

 ネットを見ていて、面白いと思うことなど様々とあるが、文章にしてみようと思う気はどうにもおきない。

 

 『安達としまむら』は見続けてみようと思う。「毛むくじゃらの生き物」とかいろいろと面白い表現も出てきそうだし、この作品も独白で語られる内面を楽しめそう。この点は『俺ガイル』に近いのだろうか?という気もするが、成長物語という感じではなさそう。

 ところで、「成長」とはなんなのだろうか?自分が小学生、中学生、高校生と歳を重ねているときはその実感はあったのか?はっきりとは覚えていないが、なかったようにも思う。でも、『俺ガイル』を見ているとき、登場人物の変化を「成長」と見ていた部分はあるわけだ。自分のことはそういう見方はしていなかったのに・・・・なんだか不思議な感じだ。

 

 『リゼロ』の面白さは神話という話をツイッターで見かけた。っ正直よくわからない。でも、そうなのかもしれないと思った。

 なぜわからないのかと言えば、自分が神話を読んだことがないからだ。著作に出てくる引用程度しか触れたことがなく、部分的に読んでいるだけなので、神話の面白さのようなものをはっきりと知覚したことがない。

 ということで読んみようか・・・・

 そのこっととは別に興味がわいたこと。それはどうしてひとは神話をつくるのか?ということ。いや、その動機を知りたいということでもないだろう・・・・なんといえばよいのか。

 話が飛んでしまうが、吉本の『共同幻想論』。神話の読解部分。神話をつくった人たちはこうした理解を期待していたのか?これはちょっと違うだろうなと思う。面白いものをつくろうと思ったら、そうした読解を誘発するものになったということだろうか?

 『シュタインズゲート』を共同幻想と対幻想のお話と見る人がネットにいたことに感動した。言われてみると確かにそのように見える。原作者にそのような意図があったのかは分からないが、面白いものをつくろうと思ったら、そうなったのかもしれない。

 ということで現代のぼくらも面白いものを夢想するとき、それは神話をつくっているということなのだろうか?というお話。

 

 全然関係ないけれど、埴谷雄高の『死霊』を萌えアニメ化とかされたら、見る人はいるのだろうか・・・・自分は少し見てみたい気がする。