忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

2020夏アニメ

 『SAOアリシゼーション』

 少年誌漫画的王道。男の子は戦いを通して、仲間をつくり、その思いを背負い、その仲間を守るために強くなる。これを面白いと思うか、どうか。自分はどうなのか?面白いとは思うだけど・・・・という感じである。なんといえばいいのか、こういう男の子の物語の在り方に渾身の一撃を喰らわせる作品が出てきてもいいのではないかと思う。『このすば』がそうなのかもしれない?

 

 『とある科学の超電磁砲』3期

 これは自分がすごい勘違いをしていた。『禁書録』は男性向け。『電磁砲』は女性向け。勝手にそう思っていた。というのは、主人公で勝手に判断していた。でもどちらも男性向けということがわかり、御坂美琴がなぜああいう感じなのか、納得した次第。(御坂美琴は男前なのだ。)面白かったのだけれど・・・・同じ内容は繰り返さない。

 

 『Re:ゼロから始める異世界生活』2期

 この作品も上記2作同様に少年誌漫画的展開ではある。

 でも設定は面白かった。1期を適当に見ていたので見直そうかと思ったくらい。

 以下、気になる点、箇条書き 覚えていれば、もうすこし丁寧に考えてみたいこと

 ・「死の特権化」これはどうしたものか?死に戻りという方法はゲームでいえばコンティニューということでそこまで悲愴な感じでもないが、スバルの場合は痛みを伴う上に、状況的に自死を選ばれざるを得ない時もあり、それをだれとも共有できない足かせもある。それでものすごく悲愴的に描かれることで物語は魅力的に映る。何度も死ぬことことを繰り返すスバルは苦しみながらも、仲間と困難を打ち砕き、視聴者も快哉を叫ぶ?スバルは特別なことができるわけだが。それは結果として「死の特権化」にもなっているような・・・・あまり書きたくはないのだが・・・・三島由紀夫青年将校は死をいとわぬからこその評価があるのだろうなと。こういうことに対する共感への違和感。先のことを予測しても仕方のないことだし、自分でもつまらないことを書く自覚はあるわけだが、スバルは最終的には死に戻りを使わずに解決するのだろう。そして、それは彼の成長として描かれるのだろうか?

 

 ・ロズワールのいう「可能性」ということば。無限の可能性問題。これは結局のところことば遊びでは?トランプさんが大統領に再びなる「可能性」ならことば遊びではない。こういう決め台詞に出てくる可能性ほど意味のないことばもないように思う、と言い切れないではないかと悶々としている。

 このことに関連して2点。

 チョムスキーのいうUG。これに対する彼の確信。詳しい学問的内容についてはよくわからないぼくだが、この種のひとをすごいと感じるのはUGは生得的に人間に備わっていると確信しているところ。なぜそういう確信がもてるのか?(『本居宣長』を書いた小林秀雄にもこの不気味な感じはある。)そういうひとには人間に無限の可能性を感じることもあるのではないか?と。そして、チョムスキーイカレタ人間ではないようにロズワールも見た目の演出上の問題があるだけで、ちっともイカレタ人間ではないのだろう。

 あれ、なにを書くか、また忘れた。

 忘れたので、『ファフナー』について書いておこう。存在と無の向こう側の可能性がどうのみたいな話をしていた。そのときにもこの「可能性」ってなんなのだろう?思っていた。皆城総士という存在がそれを示唆しているのだろうか?とすれば、この作品はことば遊びで終わらせるわけではないのだなと感心した。

 それと真壁一騎が死ぬことができないという理解でよいのかは分からないが、これも面白いというよりも感心した。彼から「死の特権」を奪ったのだ。エクソダス、ビヨンドを見ただけなので、大して知りもしないのだけれど、羽佐間カノンの死など随分と情感たっぷりに描かれていたので、主人公からその特権を奪うことは主人公補正以上のなにかがあるといいなと思った。

 そんなわけで偶然『ファフナー』を見てみて面白かったという話。1期とか映画とか関連作品も見てみようかな。