忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

7話の感想というよりも7話までの感想について

 前にもちょろっと書いたように登場人物に対する印象が変わったということについては思えば、当然のことであったかもしれない。人は人との出会いによって変わる。そういうことなだけかもしれない。

 

 中途半端にだれとだれがくっついたというネタバレだけ知っているのは非常に良くなかったと後悔している。由比ヶ浜結衣の描かれ方は自覚のないまま結末から逆算して自分なりに解釈してしまっているのかもしれない。

 3期になるまで由比ヶ浜結衣は自分としては奉仕部における普通の子担当という理解で、ちょっと変わった子である2人とはなんとなく違うと見ていたのだけど、それは誤解だったということはすでに書いた。やたら冷静に奉仕部での活動を客観視する2人とそれとは異なり奉仕部での活動を、いや時間を楽しむ由比ヶ浜というように見ていた。ところが、3期では由比ヶ浜こそ奉仕部というよりは3人の関係性を実に残酷なくらい冷静に客観しているのだと気づかされた。それにくらべれば、2人は自分のことで精一杯という感じでもある。

 それで一つの疑問がわく。この作品の原作では、この3期の由比ヶ浜はどのように描かれているのかという点。原作未読ゆえわからないのだが、この作品には語り部というものが存在するのか。なぜそこが気になったのか。それはこの3人の関係性を見つめる由比ヶ浜という存在は主人公である比企谷が彼女をそういう存在であると認識できているのかということに興味がわいたからだ。もしかりに比企谷にそういう認識があって、原作の結末があるとするなら、これは残酷だなという思い。自分たちのことを見守ってくれていた由比ヶ浜

 

 1話の冒頭いきなり聞き逃していた。比企谷自身も本物なんて欲しくなかったといっていたのだったな。見直して分かった・・・・

 

 全然関係ないようで自分としては関係があると思っている話。このところ宮台先生の話が面白くてネットで過去の動画を見ている。相変わらず著作については未読のままだが・・・・とても勉強になる話が多く、話しぶりから醸し出される人柄のようなものにも魅かれるところはあるのは事実。それでも、自分はどこか先生の話にのめりこめない。なぜか?それは先生のいう金太郎飴にもそれぞれ、ひととは簡単に分かち合えない孤独があり、傍から見ればつまらない日常を劣化した感情で生きだけのように見えても、その人も実際には一生懸命生きているのではないかと思えるからだ。そう、『俺ガイル』の登場人物たちのように。宮台先生から見れば感情が劣化したくそ野郎のぼくもそうなのだ。とかいうと自己弁護になるかもしれないが、自己弁護なのだろう。