忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

葉山隼人について

 すでに書いたか忘れてしまったが、著者がスクールカーストについて書こうというのがきっかけというのに驚いた。結果としてはそこから逸れたということでいいのだろうか?でも、私などは逸れたところから興味を持ち始めた。3期も結末は知っているものの、奉仕部のみんなが自分たちの求めたものや失ったものがアニメーションの中でどうのように描かれるのかということに関心をもって見ている。

 スクールカーストが描かれることには関心がないといったものの葉山隼人には関心がある。この物語のきっかけをつくった人である。今の雪ノ下を作ったのは、家族関係の側面もあるのかもしれないが、小学生時代の出来事も関係しているだろう。その小学生時代に二人は出会っている。そして、今の雪ノ下のような人間だからこそ、比企谷は興味を持ったわけだ。その小学生のころからなのか、くわしいことはわからないが葉山隼人は「選択しないこと」を信念としている。そのことが私には非常に面白い。なぜ、彼はそれをそんなに大切にしているのか。比企谷の積極的な自己犠牲とは対照的に実に消極的な現状維持のようなものに見えなくもない。

 そのような現状維持は比企谷により「偽物」呼ばわりされる。この点がもうひとつの私のこのアニメを見る動機である。比企谷たちの求めた「本物」はどう描かれ、奉仕部の「偽物」的な部分、葉山グループはどう描かれて終わるのか。これも楽しみなのだ。

 それからもうひとつ。葉山グループについて。「選択しない」葉山という存在を彼に強いているという思いが彼らにはないのか?いや、葉山はそんなことを聞いたら、きっと怒るだろう。葉山が比企谷に「自己犠牲」と指摘したとき、比企谷が反論したように。

 もう少し嫌な部分に触れてみよう。選択しないみんなの葉山隼人という存在にこのグループの存亡がかかっているわりには、このグループ内では葉山がどんな人間であるかについてそれほど関心が払われていないように見える。だからこそ、アウトサイダーである比企谷に自分はそれほどいいやつじゃないと告白したのではないか?この種の発言の難しいところは葉山が自分のことをわかってもらいたくて、比企谷に本音?を漏らしてるのか、そこが非常に見えにくいところ。ひとの抱える孤独感のようなもの?これはきっとだれかと共有するような代物じゃないと自分が思うからだろうか?この物語は比企谷が主人公なので、たまたま彼に話しただけで、実は葉山はそこらへんにたっている地蔵にそのことをつぶやいても、彼の心はすこし楽になったのではないかと思えてくる。そんな自分にはこのふたりの間に友情のようなものはいらないと思えるのだけど、3期どう描かれるのだろうか?

 で、今日の結論。孤独感は「自意識の怪物」を生む。結局、スクールカーストでどの階層に所属していようとなんとも言えぬ、決して癒えることのない孤独感は生じる人には生じてしまう。そして、ひとたびこの感覚を味わった人間は一本道のように自意識の怪物街道を歩む。そういうのものを見せてくれるのもこのアニメの面白さのひとつかもしれない、そう、様々なる孤独を楽しむ物語である、と蒸し暑い東京の夜道を歩きながら考え、さっき水たまりに足を突っ込んだ。