忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

書こうと思って面倒そうなので書いてこなかったこと その1

 男の子が頑張る話とその中で記号化する女の子。

 言われてみれば、そんな話は世の中にたくさんあふれかえっているわけで。

 そういう話のご先祖さまなのか、どうかは知らないけれど、自分が真っ先に思い浮かんだのが『シラノ・ド・ベルジュラック』だった。あとは少年ジャンプの漫画なんかはほぼそういうものに該当するだろうし、近年のアニメも、どれもこれもそういうものばかりではないかと。

 それってそもそもなにか問題あるのかと言えば、あるのではないかと自分は思う。なぜか?自分は男だが、そんなに頑張りたくないということがある。前向きな努力を好まないというkとだろうか?それはそうなのだろうけれど、もう少し正確に言えそうな気がしないでもない。自発性のようなものでは受け身で頑張っている感じ、止むに止まれずいう感じだろうか。このへんについては個人的な資質ということくらいのことだろう。

 ではまだほかに問題が?それは長い年月をかけて積み重ねられた偏見のようなものして男の子は頑張る存在で、その男の子に救われる女の子は記号化されているということか?こういう視点はとれるだろうと思う、と同時にこれをどうしたらいいのだろうと途方に暮れる。

 先日もある女性政治家を評して「権力に寄生する」ということばが使われた。これについて、書いた人に他意はなかったのかもしれないし、けっこうこのことばをつかったひとの文章をこれまで(これからも)愛読してきた自分が意地悪なだけかもしれないが、男性政治家にも同じことばをぶつけるのかなと思った。何が言いたいのか?これも女性政治家の記号化と言いたいわけだ。

 で、そのときはたまたまサンデル先生の番組を見た後だったので、優遇的差別に触発されたのだけれど。そうだ、少年ジャンプの編集者の半数を、執筆陣の半数を女性にすればよいのか!となるのか?売れなくなったら困るのできっとそんなことはしないだろう・・・じゃあ、少女少年ジャンプあるいは少年少女ジャンプという雑誌を新しく作ればいいのか!きっと、こういうことも実現しないだろう。

 積み重ねられた文化というものはほんとどうしたらいいのだろうねと思う。でも、まあ、正直女性作家のすごさってのはあるとおもう。岡本かの子の『老妓抄』とかちょっと男性では書けないんじゃないかとおもうし、先日も書いたように高橋留美子のラムなんかも男性の想像力なんかじゃとても太刀打ちできないくらいの豊かさというか、健康的な輝きがあると自分は思う。(『ビューティフルドリーマー』という作品に出てくるキャラがうくなかったのは押井守監督の誠実な側面が出たのだろうと思う。)きっとぼくの接してきた女性たちにもこういうものがあたはずなにそれをちっとも感じ取れなかったことが情けない。

 と思うわけだけれど、これ自体が前述したような女性の記号化とコインの表裏の関係のあるだとしたら・・・・と考えると

 うむ、この話こんなに大雑把にしてよいものではなかったのかもしれない。

 ただ、書いていて、あれはなんだったのか?一つの疑問が浮かんだ。『ユリ熊嵐』だ。なぜ、あの作品では女性と熊(人間化すると女性)ばかりでてきたのか。(見た目が男性ということであれば法廷のシーンには出てくる)あとはなんだろう。女性しか出てこない作品となると、いろいろありそうだな。こういう作品はどう位置づけられるのか。中にはすごい作品もあるじゃないだろうか。