忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

そんなの自己満足だよ

 校内マラソンの回、「自己満足だよ」って葉山隼人のセリフは原作でもあるのだろうか。よくわからないけれど、自分はオリジナルなのかなと思った。仮に原作でもあるのだとしたら比企谷への意地を見せたという理解かなと。

 葉山隼人はやっぱり天皇ってことでいいじゃないかと思った。その天皇像は平成期につくられたものであるということになるかと思うが、みんなのおかりんこと岡部倫太郎もそういう感じだったのだろうなと。

 1対1の関係ならこの種の存在は必要としないのに、3人以上人が集まるとどうしてもこの種の存在が出てくる。自然発生的に。(自然発生に見えるだけで実際には違うことも葉山問題としてはあると思うが、難しそうな問題で、わたしには書くことが今のところできない)またこの物語ではその葉山と雪ノ下の小学校時代の過去が起点としてあり、ある構造を作り出したきっかけにもなっている。タイトル通りラブコメとしては間違っているというのは偶然そうなったのかも知らないが、すごいことだなと今更ながら思う。

 ある人の指摘通り、この作品はラブコメではなく、罪について書かれたものという理解が自分の中でもしっくり来ている。私はきっと鈍いから、そのことに気づいたのが、修学旅行のあたりからだったということなのだ。「そんな自分が嫌い」ってセリフも結構好きなのだけれど、そういう好き嫌いとは関係なしに、由比ヶ浜が「罪悪感は消えないよ」と比企谷に告げたとき、あるいは、雪ノ下が何かをあきらめたような微笑をたたえて比企谷を見つめたとき、罪について書かれた物語を自覚したということだ。私自身、本当に鈍いので、実際の人間関係でも決定的にならないと気づかないということがあった。自分はちっとも比企谷には似ていないが・・・・どれくらい似ていないかというと中身診断で「イケメン」判定をいただけるくらい似ていない。そういえば、別の診断テストは外交的には中立でリバタリアンと診断された。これはよくわからない。まあ良い。

 で、ここからは嫌な話に戻る。それは葉山のことで。結局、ある集団における葉山的存在に頼るという問題。改めてみると、これは批判ではないが、アニメでは比企谷のかませ犬的存在に見えないこともなく、こういう人物の描き方というのはすごく難しいのだろうなと思った。これはちょっと自分の想像でしかないわけだが、日大アメフト部の問題になった監督は葉山的存在だったのではないかと。

 

 それと『フランシス子へ』をようやく読むことできた。結局、この本を手にするまでかなりの時間がたってしまった。自分も飼っていた犬が死んで、それでなんとなくこの本を避けていたのだが。ホトトギスの話なんかは今、日課万葉集を読んでいて、まさに感じていたことなので気になったりもしたのだけど、まあ主役はフランシス子に変わりはないが、武田泰淳の話が面白かった。比企谷を思い出した。吉本の武田泰淳への好きって気持ちはきっと十分に伝わっていたのではないかと思う。で、やはりというか、吉本自身が葉山的存在であったのではないかと、その自覚がきっとあったのだろうな。そんな彼がいつ、その存在に終止符を打ったのか。それはきっと『反核異論』というのが、私の勝手な妄想。これは海老名姫菜さんがする妄想のたぐい。