忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

1週間のあれや、これや

 『万葉集』を読み始めた。折口信夫のを選んだのだけど。所々に評が入っているのが面白い。ただ自分にはなぜそういう評になるかはわからず。声に出してよんでみて、音の響きのいいものがあったら、この日記にも書き留めておきたい。あと、鳥の鳴き声とかまったくわからんので、これは直に聞いてみないといけないと思っている。

 

 『信ずることと知ること』(小林秀雄)をひさしぶりに読み返してみた。で、驚いたこと。自分の記憶のいい加減さ。柳田国男にふれるところで鳥の鳴き声で我に返るという話をわたしは母に声をかけられたというふうに記憶していた。で、思ったのは声をかけられたのは私だったのかもしれないという・・・母にこのことを確認してみようかなと思ったけど、最近ぼけ気味なのであきらめた。

 

 並行して『本居宣長』(小林秀雄)を読み直している。というのは、『信ずることと知ること』を読んでいて、小林秀雄の仕事の端緒には感動がまずあって、それで書き始めるというような話があり、その感動というのはなんだったのだろうとちょっと気になり読んでいる。

 

 『神の塔』(アニメ)がけっこうおもしろくなってきた。

 

 僕はどうやら世間的には馬鹿ということになるらしい。検察庁法の法案に特に反対する理由もないというのがまずいようだ。心外でもないし、実際馬鹿ということで納得してしまった。でも、これだけは日記に書き残しておこう。

 三権分立が機能しなかろうとどんな政治体制になろうと、きっと僕はなんとかかんとか生きていこうとするだけなのだ。そういった意味では非常に世の中の役には立てそうもないので、ひっそりと生きていければ、それでよい。

 そんな私がいうのも気が引けるけれど、香港の若者には民主主義のために命を落としてほしくない。今更いうことではないかもしれないけれど。

 あともうひとつ気になったのは、芸能人で検察庁法でその人がそこまで信念をもって、いうことができなかったという話。その信念というものはかなり曲者だと思う。そのひとはどうたかは知らないが、自分もよく賛否をごまかすことはあるわけで。

 若いころの自分を思い起こせば、できるだけ正解にちかいものを知ったうえで、そのような判断をしようとしていたこともあると思う。でも、それって信念とは何の関係もないよなという。正解、不正解というものを超えて、仮に間違っていたとしても、自分の信念で・・・という話になるのではないかなと。特に現在はネットで正し気な情報は検索をかければぱぱっと目にすることもできるわけで・・・

 宮台先生風にいうと正解になりそうな意見を求めてキョロキョロするなという話なのだろうか。よくわからんが、キョロキョロしたっていいけれど、間違いを怖がるのはもったいないおもえる。芸能人だとCM]やら、スポンサーやらややこしいこともあるのかもしれないけれど、普通の人は間違えたところで何も気にすることはないだろうと思う。

 

 麻雀については。賭博であるからけしからんとかまず自分は言えない。学生時代にやっていたし。ただ自分のころにはすでに麻雀をするという文化は廃れ始めていた。同級生でも自分で点計算までできるのはクラスに2,3人くらいだったように思う。黒川さんはどうだか知らないが、ゲームとしては麻雀は面白くないと思う。ではなぜするのかといえば、話しながらできるから自分は楽しかった。お話ができれば十分なので夜の公園のベンチでも終電後にぶらぶら歩きながらでもなんでも自分はよかったのかもしれない。

 時期がまずかったのか。それは確かにあるのかもしれない。でもこのお前だけずるしやがってとひとさまに自分が言うことはまずない。

 一番引っかかる点は取材記者との関係性かなと思う。こういう形で取材をして、時には冤罪事件の片棒を担いでいたりしたのかと。冤罪か否か走らないが、ゴーンの事件にしても、ゴーンに不利な話だけが流されていた。その情報も麻雀しながらとっていたのか。それは夜に星空を眺め、缶コーヒーをすすりながらじゃ、取れない情報なのか。歳はとりたくないものだな。