自分はどちらでもないなという
「リベラル」とか「保守」とか世間的なラベルの貼りあいには興味がないけれど。たびたび、このひとたちにはがっかりさせられる。
先日も深夜にやっている討論番組をたまたま目にした時、老司会者に国際政治学者が「リベラル」と目される人がこのコロナの緊急事態宣言に際し、より強い措置をとれるようにと言っているのをシュールな光景?と言っていた。
言っていることはその通りかもしれない。しかし、なにもがっかりさせてくれるのは「リベラル」な人たちだけではない。
がっかりさせてくれる「保守」
GSOMIA破棄の時、「保守」の人の中には米国は本気怒っている、というようなことをいって、下品な言い方をすれば韓国に対してざまーみろみたいな態度だった。
がっかりさせてくれる「リベラル」
憲法改正が政治日程にのるという話が出たとき、前の天皇の「反省」ということばから察して、憲法改正なんて不届きものの所業と言いたげな態度であった。
超越的な位置にあるもののことばを利用して相手を論難してやろうという態度がわたしは大嫌いなのだ。で、ここが難しいところで、「命は何よりも大事」というようなことばはそれ自体が超越的な位置にある。げんにパチンコ屋や夜の街に対して行われる批判もそのことばが背景にあるのだろう。
「保守」と自認するならなんでも礼賛するという態度でなしに「日本」というものに向き合って面白いものを本でも、映画でも、ドラマでも、アニメでも、なんでもいいので見せてほしい。
「リベラル」と自認するなら、市民を守るためにこそ、憲法改正にせよ、緊急事態宣言に関する法にせよ積極的な議論でだけでなく、議員の場合は法改正まで関わってほしい。
そんな自分はなんなのかというと、はたから見れば「リベラル」なのだろうか。でも、「リベラル」であることにはなんの価値も見いだせないので違うのかもしれない。