忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

今期のアニメの途中経過的メモなど

 『Vivy-Flourite Eye's Song-』と『86』

 

 この2作品について、作中の人間より『Vivy-Flourite Eye's Song-』でならAI、『86』でなら86区に住む人々のほうが人間らしいという視点から現代社会批評性につながる系譜の作品なのかと思っていたが、どうも違うっぽい。説教くさい作品ではなかったかもしれない。

 

 『86』は今のところ差別について描かれているが、主題らしいものの姿を掴めない。

 『Vivy-Flourite Eye's Song-』についても主題が見えてこない点では共通するがいくつか気になった点をメモ。

 

 『Vivy-Flourite Eye's Song-』

 作中のAIについて

 ①こころはあるのか?

 よくわからない。普通に考えれば、こころがあるわけはない。こころに似せた何かが人工的に埋め込まれている可能性はある。ただ、それは一般論としてそういうことが言えるとぼくが思っているだけの話で、この作品でもそうであるかは不明。詳述はしないが、作中のAIにこころが生まれた瞬間みたいなものを描写している箇所がある。なので、結局のところよくわからないとしか言いようがない。

 ただ、ぼくはこの点についてはあろうが、なかろうがどっちでもいいような気がしている。人間視点で考えれば、AIにこころがあっても、なくても好きになってしまうみたいなことはありうる。そこを掘り下げていくことでなにか見えてくるのか、ぼくはちょっと想像がつかない。なので、掘り下げようがないのでは?と。

 それでは、AIにこころが生まれるとはどういうことか?そのことを掘り下げようはあるだろうか?あるような気もする。いわゆる「シンギュラリティ」問題として。ぼくはこのへんの知識は皆無に等しいので、このことばは通常、実務能力面の話だと思っていたのだが、そうでもないのか?というか、そこを敷衍してこころの問題として見てみるみたいな話は成立するのかなとは思う。でも、その話は面白いのだろうか?うーん。ぼくが古臭いのか?かりにAIにこころが宿ったとしても、人間と同一視はできない。なぜか?命がない。命がないということは吉本隆明のいうところの「存在倫理」がない。そのためだ。

 しかし、ぼくみたいな古臭い視聴者を想定してぎゃふんといわせる作品をつくっているのかもしれず?映像でぎゃふんといわされる予感がビシビシ。

 

 ②シンギュラリティのお話なのか?

 人類とAIの戦争を止めるという主人公たちの目的が示されているため、この線はありえそう。ただ、ちょっとぼくの想像しているAIのシンギュラリティ問題の面白さとは違うかも?

 ぼくの想像していたシンギュラリティ問題というのはふたつあって、ひとつはディストピア的世界の誕生ともうひとつは文学のようなものにかかわるもの。

 人間の能力を超えたAIによる管理社会。『PSYCHO-PASS』みたいな感じ。『Vivy-Flourite Eye's Song-』の世界はどうもその感じではない。共同幻想が俎上にのることはないであろうという予感。『PSYCHO-PASS』はがっつりそういう作品だった。ぼくは1期が面白すぎて、続編から逃げた。続編を見たら、もっと楽しめただろうと今でも思っている。

 もうひとつは手塚治虫の作品をAIに学習させて作品をつくったみたいな話。まあ、これは実際、ニュースになっていた気がするが、それを読んでいないのでなんとも言えないが、面白いとは思うだろうな。その作品は人間の手も加えられていたと思うが、完全にAIのみでつくられたら?これも面白いと思うだろう。まず、AIのみでつくられたという事実は伏せられたとして、ぼくはそのことに気づくだろうか?ぼくのゴーストはきっと囁いてくれない。なので、面白いとなるはず。そこを踏まえれば、その事実が伏せられない場合も結果は同じはず。ん?本当にそうか?先述した「存在倫理」が頭をよぎる。

 このふたつは『Vivy-Flourite Eye's Song-』にあまり関係が無さそう。では、この作品でシンギュラリティが問題になるとしたら、どのような形であらわれるのだろうか?見当もつかない。

 

 ③この話でAIがいう「使命」とはなにか?

 人間に埋め込まれたプログラムということ?見直さないといけないかも。使命はAIごとに違うのだっけ?ヴィヴィとマツモトの使命は違う。

 大雑把に人類のために活動するって考えてみる。それを利他性と解釈していいのか?これはちょっと微妙。利他的に生きるという在り方が作中のAIに可能なのか?生きるということばが今のところしっくりこない感じがする。

 すこし話を逸らしてみよう。AIに「宿命」とうことばはしっくりくるだろうか?ぼくは変な感じがする。宿命ということばのニュアンスは生まれつき、主体が望むか、望まないかにかかわらず背負わされるものという感じ。一方で「使命」からは「生まれつき」がすっぽり抜け落ちる。ことばあそびをしているつもりはない。「宿命をもつAI」、このことばに違和感を覚えるのはそのためだ。

 あれ?と今書いていても変なことに気づく。ヴィヴィに関してのみ言えば、歌で人を幸せにすることを「使命」と見ても、「宿命」と見てもよいでは?と。数行前にAIに生きるということばがしっくりこないと書いたはずなのだが…ぼくがヴィヴィには生命のようなものを感じているということになるのだろうか?それをやれるのがアニメなのかもしれないが…

 

 ということで『Vivy-Flourite Eye's Song-』という作品はいまのところよくわからないという途中経過のメモ。AIものではないのかもしれない。分断された社会を分かりやすく描写するために片方の属性をAIにした?とりあえず、そんなふうに見てみよう。

 

 それで、今、書きながら気づいた。

 ひとは無意味に生まれ、生き、死ぬ、だからこそ尊いとなるのは吉本のいうところの「存在倫理」があればこそ、なのだ。それほど、秘密なからくりではなかった。

 時制意識にはからくりがある感じはまだ消えない。なんだろう。そのからくりがあるから疑似回顧物語は文学になるのでは?って感じ。意識してみないと過去にストーリー性は生まれないというか、なんというか。で、ひとがいきるということの根本にこのからくりがある感じ。ん?本当にそうなのか?

 

 

批判の有効性

 こういう話はまったく面白くないので2度と書くつもりがない。

 何の話か?「自称リベラル」に対する批判についての話だ。

 3度目の緊急事態宣言に対して「自称リベラル」側からの反対意見が出てこないことにたいする批判があるらしい。どういうひとがそういうことを言っているのか?まあ、半分は予想の範囲内だった。

 常日頃、人権だ、なんだと喚き散らしている「自称リベラル」たちが今、大人しくしていることはそんなに批判に値することなのか?

 ぼくはまったくそうは思わない。

 

 戦後、共産党がそれほどおおくの支持を獲得できなかった。そこには人々の生きた知恵があったと思う。戦中、原理主義的にかたくなに転向を拒否する態度に対する疑義があったのだろう。

 関係ない昔話とかしているんじゃねーと思われるかもしれないが、そんなことはない。コロナ禍においても原理主義的に人権を声高に叫ぶのがリベラルの役割だと思っている「自称リベラル」がいるのだとしたら、戦前に転向を拒否した共産党員となにも変わらない。状況把握に失敗しているのだ。

 なので、こういうつまらん批判はもう止めたら?とぼくは思う。まあ、「自称リベラル」もよくつまらん批判を「自称保守」にしているのだから、お互い様かもしれない。

 平成に青春期を過ごしたようなぼくと同世代の人間でも、この手の批判をしているひとがいるのだから、悲しくなってくるが、仕方ないのか…「さだめじゃ」と自称冷笑系リベラル敗北主義者のぼくはつぶやく。

 

 あと、こういう文章を自分で書くと毎回、感じるのだけれど(まあ、ぼくの人生経験でも5回もないし、これで最後にしたいが)、まったく頭を使わずに書ける。ほぼ、自動生成に近い。なので、書いていてもちっとも面白くない。なんなんだ、一体。

 そもそも「保守」だとか「リベラル」だとかでひとを判別して、なにがわかるんだ。わかることがあるとしたら、そんな見方はつまらん、それだけだ。

メモ

 先日の続き

 人間にとって時制が意識されるにいたったのは近代の擬制か?フーコーを見習って、そう考えてみる。安直すぎるか?その前に近代そのものの理解が必要か?こんなことを書いているのはぼくは近代人の自覚なしに近代人やっていたような気がするからで。

 最近だとデジタルレーニン主義とか言われてもピンとこない。新しい時代の幕開けとは思えんわけで、『PSYCHO-PASS』の世界みたいなもんでしょ?みたいな。で、それでいいなら近代のロスタイムな感じがするんだが。ってか今は近代のロスタイムなの?むしろどこまでも続くよ、近代はみたいな感じがするんだけれど。まあ、あまりこのデジタルレーニン主義には関心がない。

 冒頭で触れた時制の意識と疑似回顧物語は近代的なものの見方から生まれたのか?そのほうが関心がある。『やがて君になる 佐伯沙弥香について』なんかも、大まかな流れとしては、小学生→中学生→大学生と話が進んでいるように見えて、細かく見ていくと時系列は乱されていたように思う(高校生のところはたしか時系列が前後していたはず)。では、なぜそのような操作がされたのか?疑似回顧物語だから?(作品内の順番は沙弥香が思い出した順に並んでいるという読み方)まあ、疑似回顧物語的構造をもつとはいえるかも?思えば、『バッカーノ!』とかもそうだったんだな。アニメでは語り部が明示されていたから違うか?『バッカーノ!』はミステリーと相性が良いからかも?ミステリーも近代の産物。

 

 うーん。小林秀雄の描いた本居宣長って近代人ってことなのか?かれのものの見方って、意識的に行われる作業みたいに感じる。認識論への転換みたいな?哲学史を知らんので、よくわからん。うむ、困った。まあ、なにか宣長にも「秘密なからくり」があって、「もののあわれをしる」とかいってるじゃないのって?

 宣長は保守のご先祖だとかはかなりどーでもいいことのように思うが、上記については暇を見つけて調べてみよう。

 

 今日もまたテキトーなことを書き散らしたようだな。寝よう。

 

コロナ禍の記録

 コロナ禍にあって、平素、あまりそのことにふれない理由は関心がないからではなく、よくわからないことが多くて書けないからである。言い訳はこのくらいにして、気なったことを以下、箇条書き。

 

・三度目の緊急事態宣言が出されたが、過去2回の検証はすでになされているのか?緊急事態宣言の効果はどの程度のものなのだろう?

・三度目の救急事態宣言については、大阪での増え方を見ると素人のぼくには東京にも遅れてその兆候があらわれるのではと思え、仕方ないのかと思う。

・「リベラル」を自称してるので、個人の自由を制限するような政府の介入は極力やめてほしいと思う。権力行使には歯止めが必要ということで(憲法が縛るのは国家権力と意味から考えても、権力行使には歯止めが必要)、はやいところ憲法変えて、緊急事態条項を盛り込めばいいと思うが、今それができるはずもなく。それに、この点についていえば、リベラルとか、保守とか関係なく、政府の介入を許容するひとが現状それなりいるような気がする。うーん。

・ワクチン接種の遅れについて。両親のところに通知がきたみたいだ。ぼくの接種はいつになるのやら?でも、世界を見て、日本の置かれている状況も考慮すれば、これまた仕方ないのでは?と思う。あと、この点についてはぼくは知らないが、製薬会社が適切な配分(供給)をしているのか?必要な国に必要な数を適切と思われる範囲でしているのであれば、日本が後回しになるのは仕方ない。

・オリンピックの開催が話題になっているみたいだが、元からあまり興味がないので書くことは特にない。しいて書くことがあるとすれば、どんなに下手くそでも、スポーツは見るよりも、やるほうが楽しいと思う。その点で、ぼくが学生の頃の体育の授業はウンコだった。下手くそはボールに触るなみたいな。ぼくは気にせずやっていたが。うん、オリンピックには関係のない話になった。予想通りだ。

・医療分野の話はもっと分からない。民間、公立の比率が他国と比較して、圧倒的に民間に偏っていることが医療資源のひっ迫に関係しているのなら今すぐにひっ迫問題を解決するのは無理なのでは?と傍からは見える。加えて、人口減社会の問題も医療の再編に関係あったはずで、それはどうなっているのだろう?NHKはこの問題の他、精神医療にベッドが偏在している報道をコロナ禍以前にやっていた気がする。うむ、最近ニュースを見ていない自分を反省するような、しないような。

 

 変なことを書くようだけれど、コロナ禍で自分という人間がどういうものなのかを思い知らされた。意外と仕方ないと受け入れしまう。黙って、自分のできる範囲のことやろうとはするものの、たまにそれもサボってしまう。情けないがぼくはそういう人間だ。それがよくわかった。昭和の戦争時に生きていればぼくは間違いなく反戦を叫ばなかったはずだ。

 

昨日の日記の訂正とそこから始まる、なんだろう?

 <この作品とは何の関係ないかもしれないが、ただ、安易な価値観の転倒みたいなことにはならないでほしい。ただ、ひとは生まれ、生き、無意味に死んでいく、から出発して、だからこそ生きることは尊いのだ、みたいな。もしかりに、このような転倒を試みるのであれば、転倒の理路、いや、そうはっきりとしたものではなくとも、描ききるだけの工夫がいるのではないだろうか。あまり、こういうことは言いたくないが、よきことに着地されるために雑な描写で済ませる作品がある。そこに着地させたいという思いは理解できるが、なんだか変なものを食わされた気分になる。(こんなことを書いてしまうのはぼくにもそのような感覚で自分の人生を見てしまうことがあるからで、でも、そこには嘘があるのではないか。嘘がいけないとは全く思わないが、それでも上手に嘘をつかなくてはいけない時がある。まさにその時なのでは?、と思う。)>    

 

 まず、もう少し付け加えるべきことがあった。生きることに意味などない、だからこそ、尊いみたいな発想自体は至極凡庸であること。だれしもが気づいていて、あえて口にするようなことではないため、日常でこのようなことばには出会わないだけなのだろう。大袈裟な話をしているわけではないとの前置きをサボってしまったという言い訳。

 本題は次。この文中の「嘘」は別のことばに置き換えたほうがよさそう。

 「秘密なからくり」として考えてみる。そのからくりをだれしもがこころに秘めて生きているのが、不思議というか、生きることの魅力というか、なんだろ?よくわからん。

 で、話は変わる。いまだに『俺ガイル』や『失われた時を求めて』が疑似回想の物語であることが気になっている。そのことと「秘密なからくり」は関係しているのかも?と風呂にはいりながら思ったのだった。

 「秘密なからくり」の存在をほのめかす疑似回想物語。しかも、からくりであることを暴露はしない。今を生きているひとにとって本当に大事なのは今で、過去ではないはずだ。作者にも読者にもその事情に変わりはないずで、にもかかわらず、疑似回想物語をつくり、読み、感動する。そこには無意識かもしれないけれど、秘密なからくりの自覚があるためかもしれない。きっと、「思い出」ということばもそのからくりから生まれたのではないか?なんだか思い出がこころに温かいもの、じわんわりくるものを届けてくれるという気がするのもそのためだ。

 日常で意識されることのない時制というものが言語に持ち込まれたのはそのためではないか?ものすごくいい加減な飛躍をしてみた。過去、未来は「秘密のからくり」によって生まれるのだ。まあ、ぼくは科学に疎いので、ぼくの思い付きは見当はずれであるかもしれないし、秘密はすでに暴露されているのかもしれない。ただ、秘密が白日の下にさらされたとしても、疑似回想物語の感動が失われることはないだろう。

 言語のようなものをもつ生き物は物語をもっているのだろうか?

今期のアニメ

 『Vivy-Flourite Eye's Song-』と『86』

 この2作品を倫理的には見ない。無論、いろいろな見方があっていいと思う。ただ、ぼくはそうしないというだけの話。人間ではないもの(人間ではないとされるものを含む)のほうがより人間らしくあり、その視点から現代社会のあり方に疑問を投げかけるようなものの見方はしないということ。具体的には、『Vivy-Flourite Eye's Song-』におけるAIであり、『86』における存在しないはずの第86区に住む人々である。

 『Vivy-Flourite Eye's Song-』の脚本が『リゼロ』の原作者らしいので、きっと上述したものの見方を異化するようななにかをぶっこんでくるような気がする。『リゼロ』でも古典的な人間観に基づいて、現代人のこころを揺さぶるような感動するシーンがいくつもあったが、エキドナなど魔女の存在、エルザ、彼女たちのように微妙にそこからずれている感じのものがあった。安心して肯定できる人間らしさからこぼれる側面、場合によっては忌避されるようなものも垣間見える。露悪趣味ともこれは違うわけで。まあ、そんな感じのことを期待している。

 『86』はどうなるだろう?まだ、ちょっとわからない。それにもしかしたら、こっちはもっとちがうところに作品の本質があるのかもしれないし、もうしばらくは見続けようと思う。

 

 この作品とは何の関係ないかもしれないが、ただ、安易な価値観の転倒みたいなことにはならないでほしい。ただ、ひとは生まれ、生き、無意味に死んでいく、から出発して、だからこそ生きることは尊いのだ、みたいな。もしかりに、このような転倒を試みるのであれば、転倒の理路、いや、そうはっきりとしたものではなくとも、描ききるだけの工夫がいるのではないだろうか。あまり、こういうことは言いたくないが、よきことに着地されるために雑な描写で済ませる作品がある。そこに着地させたいという思いは理解できるが、なんだか変なものを食わされた気分になる。(こんなことを書いてしまうのはぼくにもそのような感覚で自分の人生を見てしまうことがあるからで、でも、そこには嘘があるのではないか。嘘がいけないとは全く思わないが、それでも上手に嘘をつかなくてはいけない時がある。まさにその時なのでは?、と思う。)

 

 まあでも、ベタな展開になったとしても、それはそれで楽しい。

 

 『美少年探偵団』

 夢を実現させることで夢でなくなる的なオチを予想していたのだけれど、大きくはずしたのか?まあ、それはいいけれど、少年であることの意味とかはよくわからない。気になる。大人と少年の対比?それだとあまり関心は持てない。3話も楽しみ。

 

 『SSSS.DYNAZENON』

 前作『グリッドマン』みたいなオチになるのか?今のところはさっぱり見当もつかない。考察している人はいるのだろう。

 

 今期はあまり見ることが無さそうとか思いながら、毎度、なんだかんだ見ている。

 

 『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』

 話題になっているので見てみた。吉田さんはマッチングアプリがない時代のモテル男像なのかな?マッチングアプリの利用者ってあんまりいないのか。まあ、ぼくはこの辺の事情に全然明るくないので、さっぱりわからんのだが、モテル男なんてそうそういないことだけは知っている。魚住陸男とか吉田さんみたいな男はモテルかも。とはいえ、彼らのような考えをもつひとが希少というわけでは必ずしもなく、まあ、なんだ、この話はまた今度。

 作品の内容自体は3話時点ではよくわからない。登場人物にあまりにも重すぎる過去の影が見え隠れした段階でぼくは視聴を止めるかもしれない。この作品なら家出の原因の描写のされ方とかになるか。作風に対する批判とかではなく、これはぼくの趣味というか、人間観で、過去の出来事の積み重ねがある人の人格を構成するみたいな見方自体は否定しないが、そこに重きを置くのはどうにも苦手。見る側の心理としてそこからの脱却をみたいというものもない。まあ、ぼくはそんなふうには生きていないからなのだろう。人並みに?「恥の多い生涯」を現在進行形で送っているけれど、克服されるべき過去というようなものはぼくにはない。

少しだけ調べてみたのでメモ

 昨日の日記で気になっていたこと

 ヨーロッパ 中世の笑い なんとなく笑てってはいけない時代だったという認識。それは間違いではなさそう。

 ルネサンスに入るとそうでもない?

 ただ、背景に宗教改革にあるのはおさえておかないといけないというのは『ヒューマニズム考』でわかった。凄惨な出来事が絶えず起きていた時代。

 

 笑いが不真面目といいたいわけではないが、ガチの真正面からの批判を行うとカルヴァンとおなじ道のりを歩むことになり、ラブレーにとっては不本意。で、ぼくの最初の印象ではラブレーに最後に残された旧教会批判の手段としての笑いという位置づけ。でも、調べたら、これはどうも違うっぽい。ラブレーというひとは消極的に笑いという手段に訴えたわけではなさそう。笑いが好きだったのかも?当時のひとから見ても、かなりお下品な笑いだったようだ。うーん、そこらへんがどうにもぼくにはわからない。日本だと宮本常一のいう笑いみたいな感じなのだろうか?

 あともう少しちゃんと考えておけばよかったと思うのは、権力への迎合として生まれる笑いとしての側面がラブレーにものにもあったのか?この種の笑いについては不快なのであまり考えないようにしているが、ラブレーに関して言えば大事な点だと思える。ようはラブレーが旧教会批判への動員の手段として笑いを有効と考えていたのか?そこは見ないといけないのではと。どうなのだろう?渡辺一夫はきっとそんなふうには見ていない。たとえ負けても、笑いで戦う姿勢を描いているように見えたので。ん?負け前提な権力闘争ってありえるの?「負け前提の権力闘争」、このことば自体、きっとヘンテコ。ラブレーは笑いが好きなのだろうな。勝とうが、負けようが笑いで行くんだって感じ。すくなくも渡辺一夫そのように描いていると思う。その感覚はやっぱりぼくにはないかもだ。笑いが人間であることに大切ってことなのだろう。

 まあ、でもぼくも笑いは好きかも。『安達としまむら』とか『坊っちゃん』とか声にこそ出さないものの、愉快な気分、にやにや笑いながら読んでいるのだし、だれかと話しているときも同様。それでも、よくわからんのはなぜはひとは笑うんだ?笑いってそもそもなんなのだろう?

 ちょっとラブレーには興味がわいた。

 瀬戸際な状況にある社会を見て、これが笑わずにいられるかというような悲劇性が根底にある笑いなのだろうか?

 宗教改革という悲惨な出来事に直面したとき生まれる笑いとその文脈をとっらぱらったところから生まれる笑いとの間になにか違いはあるのだろうか?戦中を生きた渡辺一夫さんに聞いてみたかった。平和で豊かな時代を生きているぼくからするとそこになにも違いはないと思う。というか、違いを認めたら、笑いってすごくちんけなものに見えてしまうのだが…まあ、いろいろとわからない。

 

 モンテーニュは『エセー(一)』というのが本棚にあったので、これを読んでみる。少々、笑いに疎くても問題なさそうなので、楽しみ。

 『ヒューマニズム考』を読んで知りえた範囲でもモンテーニュモンテーニュでいろいろと面白い。相対主義的なものの見方。それができるひとは今でもごくまれにいる。ツイッターでもそういうひとを見かけるけれど、ドキッとする。

 まあ、ぼくにはできない。ぼくは別の意味で相対主義的ではある。それぞれだよねっていう意味の。そして、それが通用しない感じになってきているような気もしている。はーメンドクセー

 ところで、(二)以降はどこにあるんだ?本屋?緊急事態宣言中は本屋はあいているのか?明日からではないのか。うーん、いろいろと心配だな。