忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の続き

 ロールプレイということばから一旦、離れてみる。

 安達の母は世間で期待されるような「よい親」にはなれない。安達も島村も同様に世間で期待されるようなサンタさんの存在を信じる「こども」ではなかった。加えて、このふたりは学校で期待きたいされるような「優等生」ではなく「不良」ということになっている。そして、最後に島村が期待するような関係とは違うものを求めている、と安達は今のところ思っているようである。

 最後のものを除いて、まず考えてみよう。どうもここらへんがこの作品に漂う雰囲気をぼく好みにしている側面はありそう。1話目からこのまま延々とふたりの少女が独白を続けるのを想像して、それはそれで面白いと思っていたけれど、安達の母の登場から島村とのやり取り、そして島村家での朝食の場面ときて、独白を楽しむだけではない何があるという感じになってきた。

 それでは、共同幻想と自己規定の問題として見てみよう。共同幻想の中で生まれる期待に応えられない自分という存在。それは強烈な意志があってのことではなく、どういうわけかそういうことになってしまっている。安達の母があんな感じなのも、ふたりがついつい体育館に行ってピンポンをしてしまうのも、自らの意志ですすんでそうなっているわけではないのだ。ひどく消極的な自己規定というと悪い意味に捉えるひともいるのかもしれないが、ぼくにとってはそれにマイナスなイメージはない。といよりも、ぼく自身がかつてそうであり、今もそうであるがゆえにマイナスイメージを持ちたくないだけかもしれない。どうしてぼくは共同幻想の期待に息苦しさを感じてしまうのか、こういう意識が抜けない。また、少し大げさにいってしまうと、この作品でなら、安達や島村が「優等生」の道を歩むことは堕落でしかない、とぼくには思える。「優等生じゃん」と言われ、恥ずかしそうにしているうちはまだまだ大丈夫、そのことに羞恥心がなくなったら、ぼくが少し悲しむというだけのことではある。

 この物語のこの部分に触れたとき、ぼくは引き込まれてしまったのだろう。でも、それはふたりの独白を聞いていた時とは感触が違う、痛いというべきか、悲しいというべきか、なんと言えばいいかは分からないがともかく、心穏やかというものではなかった。

 と書きながら、思ったのだが、こういうことをつらつらと書いて、分かったような気になっても、ちっともこころは晴れてこない。これはいったいどういうことなのか。なにかが分かって、すっきりするということでもなく、それでも書いている。

 『安達としまむら』のアニメも残り半分となってしまったわけだが、今日書いてきたことについては作品の主題ということでもなさそうなので、あとはふたりの独白を楽しむことにしよう。ラノベについては本屋に買いに行くか、通販か、迷うところではある。

 それと、こういう作品は某ジャンプ漫画のようにたくさんのひとが楽しめるというようなものではないのだろうけれど、それでもずっと続いてほしい系譜のひとつだなとあらためて思う。ぼくはきっと老人になっても、こういう作品が好きなままでいると思うので、自分がじーさまになったとき、こういうアニメがなくなったら、悲しむに違いないし、若い人にもきっと見てもらいたいと思うはずだ。あれ?また、余計なことを書いてしまったか。

ロールプレイとしての「こども」をやっていない件について

 これはメモ書き。今日も懲りずに『安達としまむら』について書いている。

 しまむらの「こどもやってない」という発言。この発言をロールプレイとしての「こども」と解釈して、あれこれ書いたわけだが、「優等生」というものもロールではないかと思った。「不良」も、そうかも。あれ?ロールって変か・・・・

 自己規定の問題。なぜ安達やしまむらは「こども」をやらないのか。安達は「優等生」化しているのか?自己規定ということばはしっくりこないな。別のことばを探そう。

 また思い付きで書いているだけだが、どうなのだろう。あまり書いてこなかったが、安達は同性愛という自覚(自己規定)がありそうだが、それを秘めつつ物語は展開していくのか。でも、しまむらはそれに気づいていそうでもあり、ラノベをついに買う時が来たようだ。気になる。うーん、同性愛はロールじゃないな。ことばの選びって難しいな。語彙の豊かなひとが羨ましい。

 うまいことは言えんわけだが、自己規定の在り方のようなものを描いている物語に見えないこともないというような、そうでないような。

 

 メモ終わり。

自家撞着を指摘することは批判になりうるのか

 ぼく自身はツイッターをやらないのであまり分かってないところもあるのかもしれないが、たまにツイッターを見ていて変だなと思うことのひとつに自家撞着の指摘がある。こういう指摘をされるのは大体は有名なひとなのだろうけれど、よくわからんなと思うのだ。

 この手の指摘をすることがなにか有効な批判として成立しているということなのだろうか?ぼくにはさっぱりわからんのだ。自分自身のこととして見ても、そんなことは日常茶飯事、当たり前のこと過ぎる。今日言ってることと明日言ってることが矛盾するなんてよくあることだ。したがって、仮に自家撞着していると言われても、「その通りですね」と返すほかない。幸い有名でもないし、ツイッターもやっていないので、そういうことを指摘されることがないに過ぎない。

 当たり前とかいうのは不誠実ではないかという意見はあるだろう。確かに、ぼくもそうだとは思う。しかし、それは実際には不誠実だからそうなっているのではなく、ぼくの場合、頭の精度に問題があるからそうなっているのだ。世の中にはやはりすごい人がいるもので、そういうひとは形式論理的にしっかりと物事を捉えられる。そんなひとは自家撞着とか起こさないのだろうけれど、ぼくは違う、それだけの話だ。

 それともうちょっと違った視点でこの問題を見たとき、自家撞着という指摘がそのひとにとって重要な示唆になりうるのなら有効かもしれないが、そうでないならただの揚げ足取りか、最近流行りのことばでいえば、まうんてんごりらってることにしかならない。そのようにぼくには思えるのだ。

 やはりこれは自分でツイッターをやってみないと見えてこないことなのだろうか?でも、あまりやる気はおきない。せっかくこの備忘録兼日記を書く習慣がついてきたのに、ツイッターを始めたら、そっちに書いておしまいということになりはしないかと不安なのだ。

 自意識の語りとしてはツイッターというのはまさに合ってそうな感じもするのだが、文字数の問題もあり、韜晦した様な物言いになってしまうのも気になる。まあ、ぼくはこの備忘録を続けよう。

録画をもう一度確認した結果

 『安達としまむら』6話を見直していた。それで昨日書くはずが今日になってしまった。

 と書きつつ1話で気づかなかったことを書いておくと安達の左利き。

 

 本題の6話について、

 安達→島村のズレ

 安達は島村の望むクリスマスは違うものだと思っている。それはふたりの関係性の認識に対するズレでもあり、その結果として頭の中のことばと口から出てきたことばが別のものになってしまったのだろうと思う。さっき確認してみたが、やはり「好きで、好きで、好きで」のところは口があいていなかった。

 

 島村→安達のズレ

 春になったらまた体育館に行って卓球をすることになるのか?つまり、またサボるのかと安達に問うて、その答えを聞いたとき、それは島村が期待したものではなかったのかな?もしくは、やや意外な答えであったのかな?とぼくは感じたけれど、これは早く春になって二人の学生生活がどうなるのか、気になる。とても楽しみである。徐々に優等生化する安達?よくわからないが、しまむらのキョトンとした目、声の様子がなんだか置いてけぼりを喰らったこどものように感じられる。幼いころの記憶の前振りがあったせいだろうか?

  これらのズレが生み出す自意識の語りに今後も期待。

 6話で感じたふたりのズレはこんなところだろうか?

 

 その他に気になったこと

 安達はなぜ痛みを素直に感じようとしないのか。しかし、こう問いかけるのも変か?島村と永藤の関係に嫉妬はしていないのだろう。「しまむら」と声に少し出してみるだけで幸せを感じるのだから、嫉妬している余地などないってことなのだろうか?それと安達が前向きになっている感じは見ていても心地良い。日野とも友達になれそうではないか。

 

 島村のことをもっと知りたい、声を聞きたいといいながら、根掘り葉掘りしないところが安達の安達たる所以なのだろうか?

 

 これは大して気ならないといえば、そうなのだが、なぜ安達は島村なのだろう?家は違う方角だし、やっぱりたまたま体育館で出会った、それが運命ってことなのだろうか?それにしてもひととひとの出会いってやつは運命としかいいようがないのかもしれない。

 

 6話の感想ってわけではないのだが、『安達としまむら』を見ていて、『少年アシベ』が度々、脳裏に浮かぶ。似ているというわけではないのだが。なんなのだろう。

 

 それと頭の中のことばと口から出ることばが別のものになる問題は「ツンデレ」現象にも当てはまるのだろうか?これといって「ツンデレ」に関心があるわけでもないので、これ以上書こうとは思わないが。

 

 いずれにしても、2年生になったふたりを早く見たい。

 それと、やっぱりこれは学園ものではない?学校行事とか全く出てこない。それでも楽しい。これも不思議と言えば、不思議なことである。

 

 大事なことを書き忘れていた。「ホワイト・アルバム」とは何なのか?それが分からない。

 

 

今日の思い付きで

 「友達」ということばと「仲間」ということばをしっかりと使い分けていこうと思う。「友達」関係は1対1の関係、「仲間」関係というのは3人以上のマルチの関係。

 とか書いてみたのだけれど、これまでもこのふたつものの違いを意識してこなかったわけでもなく。

 とりあえず「友達」系の作品と「仲間」系の作品の分類とか、それぞれの系列の中で恋愛はどのように描かれれるのかとかを適当に考えてみようかとさっき散歩しながら思った。

 それと『安達としまむら』の6話についても感想を今日中に書こう。今回もまた好きなシーンがあった。頭の中で考えていたことばと実際、口から出てきたことばが違うぞってやつ。この作品を見て、はじめて気づかされたことだが、本当にひとは多くのことばを生み出しながら、それが声となってだれかに伝えられることがほとんどない。それはどこかに消えてしまう。文字通り記憶からも消される。このことがとても悲しいような、そうでないような・・・・なので、おなかがいっぱいになって、眠気が襲い、朦朧とした意識の中でも、今、こうしているようにできるだけ書き留めていこう。きっと読み返すことはないのだろうけれど。

もう少し書いてみよう

 5話を見ての感想ということになるが、これまでにも『安達としまむら』には家族は出てきていた。安達の母が出てきたときの回もけっこう印象深いやりとりがあった。そこで感じたことは安達は家にいても、学校にいても、同じような顔をしているのだろうということ。安達は彼女の母がいうように「何を考えているのかわからない」、自分の意思表示をはっきりしないひとなのだ。ここでぼくが着目したのは意思表示がうまいこと出来ない、ひと付き合いができない安達という点ではなく、家にいても、学校にいてもたいして変化がなさそうな点だった。その解釈が妥当か、どうかもあやしくはあるが、これって結構すごいことだなと。家族も島村を除いた学校の人間も安達にしてみたら同じような存在であるのか?と。安達の家族観のようなものが垣間見えた回だった。また、このとき、しまむらについても同様のことを思った。

 それでは5話について書いてみよう。冬の早朝に家の前で安達が待っていると妹に教えられた島村は妹に早く学校に行きなさいとうながした後、安達を自宅にあげ、安達、島村、島村の母が同席する中で朝食をとる。この場面が非常にいいなと思ったのだった。朝食を急ぐ様子がいいなと思ったのである。余計な話をはじめそうな母を警戒した?安達に気を遣った?そこらへんはよくわからないが、この時、島村にも家族間とはまた異なる何か大切なものが安達との間にあるのだろうと感じさせてくれた。

 そのことをどうことばにすればいいのか。数日考えてみたのだけれど、これといって適切な表現は見つからない。前回は「家族関係では補えない何か」と書いてみたのだけれども、しっくりこない。困ったものだ。こういう言い方だと家族の埋め合わせようなものとして安達が存在しているかのような誤解を与えかねないという意味で問題がある。繰り返しになってしまうが、安達が少し前向きな雰囲気を醸し出せるようになり、笑顔でひとと接するようになれる何かなのだ。こういうことはきっと家族にはできなだろう。安達と島村は家族ではないからこそできるのだ、とぼくは思いたい。

 

 補足 その1

 ロールプレイとしてのこどもをやっていないという主旨のしまむらの発言

 

 補足 その2

 吉本のことばの中でも好きなもの。「親があっても子は育つ」正確な引用ではないかもしれないが、「親はなくとも」ではなく、「あっても」とすることの意味。自分が何をしてきたのか?と問われれば、子育てをしてきたと答えるといっていた男の発言である。なので、その意味が重要であるとぼくは思えるのだ。そういえば、このことばはどの本に載っていたのか。記憶の彼方過ぎて、探しようもない。

あれの正式名称がわからない

 『安達としまむら』でしまむらが安達に貸していたもの。ぼくの母の実家の方言ではどんぶくというのだが、東京ではなんというのだろう。

 

 家族関係では補えない何か。この辺の描き方がぼくには合っているのだと思う。それは友達あるいは恋人の間にしか成立しないものというべきか。

 でも、そういう言い方ができるのなら、家族関係でしか成立しないものもあるのだろうか?しかし、ぼくは仮にそうだとしても、こっちを強調する描き方が苦手なのだと思う。と、書いていて思ったのだけれど、安達はしまむらと家族になりたいと思うのだろうか?

 

 しまむらについては幼いころの記憶が語られていた。また、いろいろと興味が薄いという感じのことを自分で言っている。こうしたことから傷つくことを恐れてひととの距離をとっているひとに見えないこともない?ぼくはそういう見方はしない。特に理由はないが・・・・

 

 安達はクリスマスの約束ができて少し前向きになり、さぼる癖がなおってきているということなのだろうか?こういうことはあるだろうな。これこそ家族関係ではなしえないことのように思える。まあ、よくわからん。当初、思っていた以上に家族が出てきたことの意味がありそうに思える回だった。

 あともうひとつ気づいたことがあったのだけれど、忘れてしまった。見た直後に書かないとダメだ。