忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

炎上ではないような?

 寒暖差が激しく、風邪気味のような?でも、しばらく、風邪らしい風邪をひいていなかったので、大体、10年くらい?風邪をひいていない気がするので、わからん。

 

 度々、世代間対立が話題に上がるようだけど、マスメディアに仕掛け人がいるとはおもわない。というか、そんな内部事情など一切、知らない。

 まあ、炎上ではないでしょう。

 若い人に選挙に行くことを呼びかけるのに、「老人に悪役を演じてもらう」?

 社会保障制度がこのままじゃ破綻するというのはそうなのかもしれないけど。原因は老人にあるというよりも、戦後日本がつくったシステムが制度疲労をおこしているということなのでは?今のような「少子化」を制度をつくった当時は想定していなかった。

 あと、これは繰り返し指摘されているけど、高齢者の貧困率を度外視した議論は傾聴に値するのか?、あるいは、社会保障を実際、削ったことで、高齢者にこどもがいる場合、そのこどもが社会保障費で賄われていた部分を負担することになるだけといった議論もある。

 まあ、なんだ。たかまつさんはどういう議論を立てようとしているのか?よくわからない。批判で火だるまになっているというよりも、あなたのおっしゃる議論は議論として成立していません、という指摘なのだと、おもうが、彼女自身を含め、その周りにいる人たちも、そういった指摘のある事態を「炎上」と形容しているのは、どーいうことなのだろう?

 「炎上なんか気にしないで」というのはいいと思うけど、反論が必要な場合はあると思うけどな。すくなくとも、ぼくはこの種のシルバー民主主義批判は結局、格差問題に行き着くような気がするので、議論として成立しないと思う。どの世代にも格差があるというお話になるのでは…まあ、ぼくもわりあい世代間格差はあると思っていた方なので、ひとさまのことは言えんけども。問題設定として現状では社会保障制度の維持が難しい、といような言い方にかえればいいと思う。

 どうしても、世代間対立とか、シルバー民主主義という呼称にこだわりがあるのであれば、その限りではない。がんばって、その用語を使い続けてくださいって感じ。しかし、これらのことばだけでなく、「もっと分断を」みたいなことを言う人もいるようだし、ぼくにはよくわからんな。そういう人たちは分断から革命へみたいな見通しを持っているのだろうか?よくわからん。

 革命とかどうなったら、起きるのだろう?これはぼくの手に負えるようなお話ではないな。はい、次って感じ。

 

 あと、たかまつさんについてしらないけど、メディア知識人にありがちな傾向として、ある主張Aと主張Bを同時にするような場合、それを政策レベルで実現しようとするとうまく整合しないみたいなのを目の当たりにする。政治上の立場というのは、それだから大事なのだと思うけどな。「総花的」(死語か?)というのは選挙公約でもあるまいし、知識人の議論としては駄目なんじゃね?と思う。

 

 あ、ちょっとお話がズレるけど、国葬の議論はあまり理解できなかった。

 法学的視点から論点整理として、自由主義的見地と民主主義的見地があり、自由主義的見地からは内閣府設置法でクリアできているが、民主主義的見地からは問題ありということだった。

 まあ、ぼくはそれぞれの主張に疑問を持った。

 自由主義的見地から国葬を考えた場合、内閣府設置法で問題なく対応可能というは理解できたが、この主張をとる人は自由主義者という理解でいいのか?その理解でいいのなら、ちと疑問あり。自由主義者というのは国葬、そのものへの違和はないのか?

 このへんがよくわからない。法に従って行えばいいというのが自由主義の立場か。でも、矛盾が生じるケースも起きうるよね。こうなったら、ひとそれぞれということか。

 民主主義的見地への疑問は、なぜ自由主義的見地よりも民主主義的見地のほうが優先されねばならぬのか?そこが理解できなかった。ぼくがyoutubeで見たシンポジウムでは、自分の理解が足りないだけかもだけど、民主主義的見地の優位性を前提にお話を進めていたので違和が残った。

 

 国葬についてはやりっぱなしで、議論の蓄積がなかったような気がするけど、気のせいか。まあ、いいや。ぼくは「じぇいりべらる」なので、あらゆる国葬に反対です。賛成/反対の両識者を呼んで、なんたらというニュースは見た気がするけど、細かい内容はやっていたのか?忘れたな。

 

 さっきのお話に戻ると「総花的」主張で整合的ではなくなるのはしょーがないのか。メディア知識人の場合、ありとあらゆることにコメントを求められるので、しっちゃかめっちゃかなキメラ主張になるのかも。

 

 げ…見てはいけないものを見てしまった気分。

 なんか「比喩」と言っておけばいいみたいな雰囲気は嫌いですね。あのPR動画をどういう見方すれば、「比喩」と理解できるのでしょうか?ちょっと、「抽象的な比喩」のときといい、「比喩」というものをなめくさっているのでしょうか。なめくさっていてもいいので、もっと、笑わせてほしい。つまんねーんだよって思いますよ、俺様は。

 

 俺様ということばをつかってみた。こんな感じでいいのだろうか。

 

 あの若者向けに作られたPR動画?はどこからどう見ても比喩にはなっていないように思うが…ストレートな表現と理解したけど。あえて、比喩として理解するとどーなるんだろう。って、それは俺様が考えることではない。それをつくって、比喩であると主張する人が考えることだな。また、余計なことをするところであった…

 

 寝る。

 

 ふたことめには「比喩」とか言ってんじゃねーよ、つまらんぞーって感じですよ。

 ということで、ぼくも今後、私生活で答えに窮した場合、とりあえず、「それは比喩です」と言ってみようと思います。ぼくがそれを言ったら、たぶん、単に無視されるだけでしょう。

今日はいろいろとまわりくどい言い方をするのはやめよう

 と思ったので。

 ついでに、やっぱり保守も同じじゃん。

 「あべがー」族や「すががー」族、今だと「きしだがー」族?というのはいるのだろうか?、詳しいことは知らんけど、ともかく、保守の人たちがあまりの罵詈雑言に眉をひそめていたのは、ある程度、理解できるけど、「こにしがー」と何が違うのだろうか?

 ぼくにはさっぱりわからん。

 というか、ぼくのような人が一定数、世の中にはいて、政治のその側面への関心を失っていると思う。しかし、ぼくの政治観のほうが変なのでしょう。闘争というのがつきものなでしょうし。

 なお、小西さんだけではなく、情報源も守られるといいではないかと思いましたが、おそらくその流れになっているのでしょうか。よくわかりません。

 

 天気がいいので出かける。

まわりくどい言い方をやめると

 アニメ『おにまい!』は

 みはりがまひろに発情している。妹が兄(妹)のことが好きなのだと思うが…そんなことは許されないというお話にはしていないと思う。

 もうひとつは見た目の問題ということになるのか。見た目が変わっただけで、中身がそのままでも人生が楽しくなるみたいな。しかし、この見た目の点に関しては、ぼくは目が悪いのでだいたいの人間がっざっくりと同じ輪郭に見えるので、あまり、わからないというのはある。しかし、最近の世相でいうと、マスクをすることでお話がしやすくなったという人もいたりすのでは?などと。あと、細田監督は繰り返しこの種のテーマに取り組んでいるのでは?目に見える部分/目に見えない部分。もっとも、文脈は異なるが。秘密と禁忌?秘密を明かすことが禁忌。秘密というよりも正体のほうがいいか。とすると細田作品をこの文脈で例示するのは適切ではなかったかもだな。

 もう少しちゃんと記述すると、まひろが実は、男であったという秘密は作品を見ているものにハラハラさせる刺激的な要素とはいえるが、それは作品の核ではないという解釈。もし、まひろが男であったことが作品の核であるとするなら、それこそ、このアニメ作品のクライマックスは、みんなにその秘密を打ち明けることになったではなかろうか。細田作品っぽくなる。

 性別転換に付随して発生した秘密が作品の核でないとすると、あるいは、こうもいえるかもだ。性別転換とアイデンティティはあまり関係ないとも。すくなくとも、みはりはそう思っていそう。「お兄ちゃん改造計画」とは中身の改造を志向していない。

 

 ともかく、みはりのまひろへの愛情というか、確信というか、思いというか、そういうものにぼくは感動したのだと思うな、これだけははっきりしている。

 

 

気づかなそうなので

 気にしても仕方ない気がする。

 人間が書いた文章なのか?AIが作成した文章なのか?もう、見分けがつかないなら、というのは、ぼく視点から、気がつかないのなら、気にしても仕方ない、と思える。で、その気づかないことで露呈するのは、人間の能力ではなく、ぼくの能力のほうであろう。

 しかし、チャットAIとお話してみるとけっこう楽しかったのだ。新しくなってからは試していないけど、以前のバージョン?では人間によって答えが誘導できそうに思えたけど、これもまた、人間とAIの間だけではなく、人間と人間の間でも行われていることだ。なお、この種の誘導的会話はぼくはあまり得意でもないし、好きでもない。嫌いとさえいえる。あれは会話ではないが、予算委員会とか、見ていると飽きてくる。ガチの議論であれば、そのほうが見ていて楽しい。

 

 シンギュラリティというのはよくわからないけど、これも、AIの知性が人間の知性の観測外までいったら、人間には気づけないのだから、いくら気にしても、実際には、ただ、その不安だけが残るだけ、というお話にはならぬのだろうか?まあ、人間はよくわからないものを自らつくりだして、それにおわれるのがつくづく好きな生き物なのだろうか?疎外論というのは人間の志向の問題なのか?思考の問題なのか?おやじぎゃぐ

 まあ、与太話はこのへんでおしまいにして、ともかく、その臨界点は観測できるものであるのか?も素人のぼくからすると無理なのでは?と気がする。繰り返しになってしまうが、人間に気づかれるようでは、AIもまだまだ(成長の余地があるよう)だな、という感じ。

 

 永井均さんのお話をちゃんと理解できていない気がするけど、というのは、『独矛超盾』の最終章のひとり二役をこなせていないので…ひとつ思ったのは、この問題は文章化、言語化するのが非常に難しいのだとわかった。

 ぼくがためしにパラフレーズしてみようとするとことばの選定が甘くなり、うまくいかない。

 でも、言い換えてみたくなる衝動はおさえきれない、というほどでもないけど、この問題への愛着のようなものはどこからくるのか?その淵源は?世界を穿つみたいな感覚か。世界を穿つことばということなのかも。しかし、これも、文学青年風な読み?中二病的な読み?

 

 「私」、「ぼく」ということばを発したということ自体が自他の区別がついている、というのは自分以外に他者がいるという世界観の中にいるということか。言語のつくりだした世界?ところで、この「言語」という表記をぼくは「ことば」に置き換えたくなる。まあ、それはいいや。

 その「ぼく」という存在だけ、なぜか、ひとりだけ異様なあり方をしているという事実?で、ここで、「異様」ということばをつかうとうまくこの事実を記述できなくなるのか?どうか?「異様」ということばをあてると、雑味が生じる。ぼくが勝手に「私秘性」を紛れ込ませているだけと言えるのかもだけど。ともかく、事実の記述をそのままに受け取ることができなくなる。

 これはどうしてそうなのるのか?というと読者が自分の生きた得た感覚を文章に持ち込んで、読んでしまうからか。「読む」という行為が非常に高度な作業に思えるのは、実感?をそこに持ち込んでしまうからか。まあ、「書く」にも同じことが言えるか。しかし、そういった実感を取り除いて、文章を読んだり、書いたりできるのだろうか。できたとして、それはなにをしていることになるのか?というのがAI問題なのか。

 あれ?何の話をしていたのか。

 

 「私小説」好きのぼくからすると、この「私小説」とことばが変な感じに響くようになったのはとても楽しかった。「私」ということばに二重性を見るようになったから、と思う。

 

 まあ、このお勉強はまたしてみよう。カントはまだ読んでいない。大江健三郎もまだ読んでいない。どういうわけか、『おにまい!』を見続けている。おもしろいからか。おもしろいことがたくさんありすぎて、時間と頭が足りない。

 

 ああ、AIの「シンギュラリティ」問題、これは言語によって構成された世界の破壊を志向すると起きるのか!しかし、その世界はもはや人間には理解不能なものになるか?というと、意外と人間の頭はやわにできているので、存外、その世界をも悠々と楽しんで生きるような気もする。

 

 関係ないことを思い出した。

 人間は太古の記憶を呼び覚ますといい気がする。

 自分たちが捕って食われていたころの記憶を。あのころは人間が喰われる側だったのです。

 まあ、ぼくにはその呼び覚ますこと自体ができない気がしますけども。

 では、なぜ『エイリアン』、『マブラヴ』シリーズ、『進撃の巨人』のような作品が生まれるのか?というとたぶん、その記憶がどこかに残っているから?

 よくわからない。

 

 『バートルビー』は難しい作品だ。

 「前提の士」と「好みの士」というのはやっぱよくわからん。p.31とにらめっこして、根負けした。

 ある前提を選ぶのが好みの問題ということ?

 しかし、ぼくも言ってみたいとは思う。

 あなたがそう望むなら、ぼくはあなたが望むようなことはしくない、と。そうしない方が好ましい、と。

 頓智というよりも、深い拒絶がそのまま深い受容へというような倒錯感があるのかもだな。

 

 アニメ『一休さん』をあまり見たことがないけど、ひろゆきさんは一休さんなのかも。

 

 

 

 

 

 

冬アニメ メモ、読書のメモなど

 バタバタとしている。で、『おにまい!』を2と3分の1周目に突入したまではいいのだが、どうせなら、ちゃんとメモとりながら見ても良かったな、と後悔している。1話目に「お兄ちゃん改造計画」との文字列を確認できたので、この時点で、実は、性別転換あるあるが主題ではないと推測ではできたのかも?

 と単純には言えないだろう。これは、やはり、ぼくがおしまいまで見終わって、その結末から逆算して、そういうこと「も」言いうる程度の意味合いしかない。というのは、実際に見ていた1話時点では性別転換あるある系と「も」、ぼくは解釈してのだから。また、性別転換あるある系と解釈しなくても、「お兄ちゃん改造計画」を誤読を誘発するものと、当時、ひとまず考えることも可能だったはず。原作既読であったら、もうすこし、確かな解釈も可能であったか?というと、これも微妙である。なぜなら、アニメ作品は原作の解釈を経由して再構成されたものであるから、けっこう、原作を参照すると印象が変わる作品もあったりするので。余談ではあるが、大雑把な印象論として、原作をなぞる作品のほうが、一般に高評価を受ける傾向があるようだ。原作ファンの声なのかも。

 まひろは見た目だけが変わって、中身に変化がなかったとは言えそう。ポンコツのまま、友達ができる。それができるとみはりには確信があったのだろう。中身はそのまんまでも、もっと違う生活を送れるはずという確信が?願望が?みはりにはあったとことではなかろうか。ささないことで人生が変わると書いてしまうと、これはすごく嘘くさくなるので、お話を変えよう。

 時間があったら、メモをして、感想を残しておこう。感想は多分、半年後くらいに書こう。そのくらい熟成させるということにしておこう。

 

 『とな天』はよくわからない作品とおもっっていたが、最後までわからなかった。

 しかし、なんか若い人は楽しんでいる様子がわかる。ので、この作品の感想はその人たちのを読んでみよう。しかし、露骨に言えば、天使様も、駄目人間も内面がだだ漏れではないか。それでも、ふたりとも鈍感だから、物語になったということなのか。

 男3人組の会話はちょっと変だった。お互いに高スッペクとたたえ合う男たち?冗談を言い合っているようには見えないように演出されていた。こういう場面は、珍しく早送りしたくなった。天使様と駄目男の会話も早送りしたくなったけど。

 それじゃ、なんで見ていたのか?というとなんでだろ?

 不思議と見れちゃうというのは、ある。しゃべり方とか、声の問題か。

 

 『スパイ教室』は、これも原作未読だが、叙述トリックを楽しむ作品ということになるのか?ぼくはそこまでその部分は楽しんでいない。部活動ものとして楽しんだ。主役は先生だったと思う。風変わりな先生と落ちこぼれ。

 

 『ニーアオートマタ』はたぶん、ゲームのサブクエストをちょいちょい混ぜて、構成されているのだよね。主軸ははっきりとしていそうなので、迷子にはならない親切設計とは思うけど、機械生命体の存在が本作でどういう位置づけにあるのかは、今のところ、わからない。

 

 春アニメはまだチェックしてない。ぼやぼやしているとはじまってしまうな。

 

 『バートルビー』初見の感想

 おもしろい、おもしろくないでいえば、おもしろい。

 でも、悲しい感じ。主人公が死んでいるから?まあ、そうかも。

 主人公に魅力を感じるか?感じる。だれかの期待にかたくなに応えない人と理解してみる。天邪鬼というとは違う。期待に応じないことが倫理化していると見るべきか。

 

 語り手の最期のところ。なぜ、主人公の過去を最後の最後で明かしたのか?この語りをなぜ入れたのか?よくわからん。時間があったら、考えてみる。語り手がひとりで納得している。語り手は何を納得しているのか?納得したいだけなのか?バートルビーが語り手に問いかけたことへの応答か?

 

 単純に意味をとれなかった大事そうなところ。

 「バートルビーは前提の士ではなく、好みの士なのだ」(柴田訳、p.34)

 語り手がバートルビーを誤解していると考えてみた。好みの士ではなく、だれかの期待には絶対に応えない人。

 「好みの士」というのがよくわからん。「前提の士」も同じくらいわからんけど、この「前提」は語り手の前提?仮定?ということだろう。

 ふたりの前提が異なる。語り手は他者の期待には応えるのが当然と思っていて、バートルビーはそうしないのが当然と思っている?

 とりあえず、こんな感じで解釈しみる。

 バートルビーの語り手への問いかけ、「ご自分でおわかりにならないのですか」(p.31)上記の解釈にならうと前提が異なることがわからない?問いかけになるのか。なんか、しっくりこないな。

 

 しかし、『おにまい!』の三周目をまず見終えよう。カント、大江健三郎をいつになったら読むのやら。初見のカントを優先するか。

 

 

楽しみにしていたので

 『転天』と『おにまい!』の最終回を見た。早起きした甲斐があった。

 

 『転天』は、しかし、最終回はきりがいいところで終わった、というとそうなるものの、たぶん、物語が転調していくのはこの後なのだよね?と原作未読ながら感じている。予感というほど、これといった確信もないわけだが。精霊との契約の暗部は作中で明確に示されていたのだし、階級社会の暗部も同様かと思う。

 お世継ぎ問題なんかは現代日本を彷彿させる。

 空を飛んでいるところを見ると、ぼくが思っていたよりも暗い作品ではなかったのかもだな。

 しかしなあ。こういう終わり方をすると、というのはなんか一応の結末をきっちりとやると意外と2期はないのか…けっこう、2期が見たいのに続編の報せを耳にすることがない作品がある。

 

 『おにまい!』はおもしろかった。みはりのいうとおりだよ。まひろが見た目が変わって、違う生活があることを知って、具体的には妹であるみはり以外におしゃべりする相手ができて、楽しいのだと思う。大前提として、まひろがぼっちな人間の生活をよくしった人間であるから、今のまひろの生活が際立つ。ただ、まひろにお友達ができてしまったことで、今度はみはりが寂しさを感じる番になるのか?と思いきや、みはりにはもともと友達がいたので、そうでもないようだ。が、みはりはやっぱ少し寂しいのではないか。最後のシーン、いわゆる「恋人つなぎ」とよばれるものであろうか、あの手のつなぎ方をクライマックスに持ってきたのには若干、あざとさを感じるけど、まあ、いい描写というか、すこし感動した。みはりがガチでお兄ちゃんというか?妹というか?はっきりいってしまうと、肉親であるとか関係なく、まひろという人のことが好きなのだろう。みたいなことを考えると、「日常系」とはやっぱすげーな、と思う。そのかもす雰囲気と内在する主題の隔絶に違和感が生じない。アニメというものがそうなのか。ディズニーなんかも、けっこう、とんでもないテーマを仕込んでいるような気がしなくもない。ジブリも。

 ということで、すこししつこいけど、この作品は性別転換あるある系のお話ではないでしょう。いや、そのようにも見えるので、話題になったとはいえるかもしれない。どっちでも、いいか。おもしろかった。

 

 ※『おにまい!』の制作は『無職転生』のところ。

 

 自分で書いていて、

 いわゆる「~~」

 どなたが言っていたが、ニュース原稿でこれはおかしいと思う。ぼくもそれをニュースで聞いてアレ?となった。日テレの23時のニュースだったか。何年ぶりかに、民放のニュースを見た、というのは嘘だけど、たまたま、目にすることはけっこうあるから。

 本当は書きことばで、自分もやっているが、

 いわゆる「~~」

 も変だとは思うけど、なぜなら重なっているから。「頭痛が痛い」みたいな。「」付ということ自体に、「世間一般でいわれる」が含意されるので、でも、この書き方をぼくもする。くどい感じがわざとらしくてすきなので。用例としては、

 いわゆる「恋人つなぎ」

 いわゆる「中二病」など

 ちょっとくどくどしくて仰々しい感じが出て、ひとりで楽しくなってくる。

 あ、脱線した。

 ニュース原稿ではそもそも、「いわゆる」は不要と思うけどな。逆につけられるとそこにはどういう意図があるのか?気になってしまう。接頭語的なつかわれ方とでも言えば、いいのか、そんな傾向でもあるのだろうか。

 

 いわゆる「文学を読む」について

 まあ、ぜんっぜん、「いわゆる」ではないわけだが。

 じかに頭をぶん殴られるごとき衝撃というのは感じます。これも身体性ということでしょうか。

 例は何でもいいのだけど

 「ああ、おまへはなにをして来たのだと……吹き来る風が私に云う」

 これなんか、ぼくがそれこそ、14、5のころに読んだけど、その時、今以上にものを知らないただのクソガキ、いわゆる、「真性中二病」だったのに、なんかすごいものにぶつかってしまったという感覚があったはずだ。「文学を読む」ことの始まりにはこのような契機が必ずあると思う。なんか、根本からぼくは時代に取り残されている気がしてきた。知識としての文学みたいなものは大事には違いにないけど、「文学を読む」はそれよりも、知識化よりも、少し前の段階から始まっていたような気がする。

 しかも、当時のぼくには故郷なんてないのだしな。なににぼくはぶちあたっていたのか。

 これは当時の先生の影響もあるかもだ。なんか、一文でも気になる箇所が出てきたら、その読書はいいものなんだ、と教わったと思う。しかし、その種の助言を素直に聞くような人間ではなっかたけど…

 というか、気に入った一文に出会うのには全部、読まないとダメか。まあ、いいや。

 

 あと、結局は全体を読まないと始まらないこともある。何の作品であるのかがわからない。こればかりは読み切ることからしか始まらない。もちろん、読んでいる過程でも、何の作品であるかは考えるわけだし、読み終えてもわからんことも、たくさん、あるけど。

 けっこう読みかけの小説があるな…そのうち読むだろと思いながら、結局、読んでない。

 

 ちなみに、『お兄ちゃんはおしまい!』で一番、好きなセリフはまひろがもみじにはなった「早く治るといいね、ちゅーに病」だった。9話「まひろと年末年始」だった、と思う。治らないんだよなーと聞きながら、思った。

 というのは嘘で、みはりの「おにーちゃん」が好きかも。「お」を聞いた瞬間に、その「おにーちゃん」にどんな思いを込めているのかを聞き分けられます。怒り、喜び、愛情、憎悪はないか…というのも、嘘です。聞き分けられるというのが嘘です。顔の表情など、情景描写も参考にしています。

 細かいお話になるものの、妹として兄のことが好きというよりも、みはり視点から、いつのまにか「おにーちゃん」と自分が呼ぶようになっていた生き物のことが好きという感じが好きなのかも。この好きにおいては血縁要素は捨象されているような気がする。